私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

カテゴリ: 県連主催ふるさと巡り

県連故郷巡りアマゾン=90周年に沸く「緑の天国」=(23)=旅行社の機転で救われた最終日 ニッケイ新聞WEB版より

本橋幹久さんに説明する武真祈子さん

 昨晩の事故に加え、17日午前にはマナウス空港が濃霧に囲まれたために飛行機が離着陸できなくなり、34人が乗るはずだった便は結局キャンセルになった。
 このような予想外の事故や自然現象は、県連のせいでも、グローバル旅行社のせいでもない。
 グローバル旅行社が特別に手配してくれたおかげで、一行はいったん、ホテルに戻って休息することになった。次の出発時間は午後9時の便と決まり、各人はホテルを出発するまで自由に時間を過ごす。
 普通の個人旅行だったらその間、まる一日、ロビーでひたすら待つしかなかっただろう。

本橋幹久さん

 ホテルで昼食を取り始めると、本橋幹久さんが「自分の大学の後輩がマナウスで猿の研究を行っている。彼女も今日サンパウロに行く予定だったが、飛行機が飛ばなかったので会うことになった。あなたもどうか」と声をかけてもらった。折角の機会なので、連れて行ってもらった。
 『猿の研究』と言っても、大学も文系だった自分にはどのような研究なのか、どのような人が行っているのか見当もつかず好奇心がそそられた。待ち合わせ場所は、国立アマゾン研究所(以下、INPA)の科学の森(Bosque da Ciência)だ。
 ここでは、京都大学がINPAと共同で「フィールドミュージアムプロジェクト」を進めている。北海道大学を卒業後、京都大学霊長類研究所の修士課程に進んだ武真祈子さん(26、山形県)は、アマゾンに生息する猿の研究などを行っている。
 「元々野生動物が好きだった。スタジオ・ジブリの『もののけ姫』からも影響を受け、研究を通して人と野生動物の貢献ができたらって」。小柄で華奢な武さんは、科学の森の中を案内しながら、研究に携わり始めた理由を語った。
 「アマゾンマナティーはゴム景気の時に乱獲が激しく、ベルトコンベアの皮にされていたそうです」――マナティーを保護している場所を見学する本橋さんと記者に、武さんが説明する。
 「特に『子連れの母親マナティーの肉が美味しい』という伝説があり、母親が殺されて子供が取り残された。残った子供のアマゾンマナティーを野生に復帰させるプロジェクトが進行しているんです」。

飼育員からミルクをもらうアマゾンマナティー

 武さんは、「昨年ここにお立ち寄りになった眞子さまは、マナティーを見て『とても可愛らしいですね』と言ってミルクをあげていらっしゃった」と当時の様子を教えてくれた。
 本橋さんは、自分の好奇心が刺激されたのか、武さんの説明に次々と質問を重ねていく。武さんもその質問に丁寧に答え、時間いっぱい付き合ってくれた。本橋さんは、「故郷巡りでこういう場所に立ち寄る時間もあったら良いね」と感心したように頷いていた。

 INPAからホテルに戻った一行は、午後9時の便で出発し、中継地のブラジリア空港のVIP CLUBで仮眠を取った。
 これも普通なら、ロビーで横になって待つしかなかったのを、グローバル旅行社が交渉してVIP待遇にしてもらったものだ。予想外の問題が発生したときこそ、その旅行社の本領が発揮されると痛感した。
 そんな中、援協前会長の菊地義治さん(79、岩手県)は、「ここに座ってお話でもしましょう」と言ってくれた。
 80周年に引き続き参加した菊地さんに感想を尋ねると、「どこも良かったよ」と微笑み、「一緒に来られなかった奥さんにはお土産を買えたしね。ただ、80周年には援協も式典に呼ばれたけど、今回それがなかったのが残念」と感想を述べた。
 朝午前7時45分頃にサンパウロへたどり着いた。ようやく到着し、全員がホッと安心したように微笑み、「着いたね」と顔を見合わせる。終わりよければ全てよし、一行は晴れたような顔つきで空港を後にした。(終わり、有馬亜季子記者)

県連故郷巡りアマゾン=90周年に沸く「緑の天国」=(22)=マナウスに取り残された34人  ニッケイ新聞WEB版より

有坂艶子さん、夫の隆良さん

 途中大雨に見舞われながらも、水上レストランで昼食を取った一行は、ホテル・ブルー・ツリー・マナウスに戻った。夜はアマゾン地域の魚料理レストラン「Amazônico Peixaria Regional」を訪れた。
 ここでは、この旅で最もアマゾン色が濃厚な食事が味わえた。どれも美味しかったが、肉厚なピラルクのチーズ焼きや、焼いたタンバキなどは、思い出すだけでもう一度食べたくなる。胃が満たされるまで思う存分味わい、帰路についた。
 ホテルのロビーに着くと、吉岡美津子さんが「19歳の頃に同じ学校だった」という故郷巡りの参加者と話をしていた。今は別々の所に住んでいるので、再会は久々だという。
 これは面白そうだと話を聞こうとすると、相手の人から「取材はちょっと」と断られてしまった。せっかくのネタが…と悔しがっていると、「ちょっと記者さん、聞いてくださいよ」と有坂隆良さんと妻の艶子さんが声をかけてきた。
 「私の妻がね、同船者にここで再会したんだよ!」――隆良さんが、そう言って妻の艶子さん(84、二世)の事を紹介すると、艶子さんはふふっと笑う。「ブラジルで生まれた艶子さんに同船者とは?」と首を傾げていると、「彼女は一度日本に帰っているんだ」とその経緯を説明し始めた。
 当時、サンパウロ州南部のイタリリーに住んでいた艶子さんの一家は、戦後に日系社会を二分した〃勝ち負け抗争〃の勝ち組だった。「日本はもう勝ったんだから、全員で帰りましょうって」と、1954年1月に家族13人で日本へ引き揚げた。
 沖縄県出身の艶子さんの一家だが、大阪府に身を寄せ4月には日本の学校にも通った。だが日本に適応できず、7月には移民船「ぶらじる丸」でブラジルに戻ることになる。
 その時に船の中で一緒だった、サンパウロ市イピランガ在住の若山ヨシオさんと今回故郷巡りで再会したというのだ。艶子さんは、「ベレンのホテル・サグレスで偶然目の前に座って居た人と話したら、同船者だと分かったの」と喜ぶ。
 「世間は狭い」とよく言うが、この再会にもピッタリ当てはまる言葉だ。だが肝心な連絡先は「聞き忘れちゃった」とのことだが、日系社会にいれば再び会える気がしている。
    ☆

ガイドのケイコさん、Zenkyuさん、和田好司さん、和田恵子さん

 マナウス最終日の17日のはずだったが、前日の16日午後にガイドのケイコさんから「大雨で小型飛行機の墜落事故があり、飛行機が飛ぶか分からない」と連絡があった。幸い死者は出なかったが、航空便の発着が見送られている状況とのことだった。
 記者と同じグループの34人が乗る予定だったのは最も朝早い便で、17日午前4時45分発を予定していた。だから一行は午前2時に起床し、3時15分に空港へ到着、午前6時15分には全員が搭乗口に着いていた。ところが、なんと10時半まで待たされた挙げ句、「キャンセルとなった」と発表があった。
 どうすることも出来ない状況に、リオ・グランデ・ド・スル州都ポルト・アレグレから参加した和田好司さんと妻の恵子さんは、早々と席に座り、各々自分の時間を過ごし始めた。恵子さんは「こうなったらも何も出来ないから、本でも読もうかと」と鞄の中から小説を取り出した。
 せっかくなので、今回の旅で最も良かったプログラムは何か聞いてみると、「カスタニャールの昼食会が良かった。婦人部の人ともっと交流の機会があればとも思ったけどね」と惜しみつつも、地元の人との交流が楽しんだようだ。
 一方で、好司さんは「今回楽しかったこともあるけど、スケジュールが過密で大変疲れた。トメアスーとベレンの往復は合計で11時間、トメアスーで行われた式典は4時間もかかったしね」といつもの調子で辛口な感想を口にした。
 サンパウロへ到着後は一泊し、ポルト・アレグレに戻る予定のため、「帰りの飛行機がいつになるか」と気持ちがはやる様子。
 前県連会長の本橋幹久さんは、「スムーズで手順が良かったのはマナウスの式典、一生懸命やっているのが感じられたのはトメアスーだったね」と感想を述べる。また、「マナウスの宮本倫克さんなど、久々の友人に会えたのは良かった」と顔を綻ばせた。(つづく、有馬亜季子記者)

県連故郷巡りアマゾン=90周年に沸く「緑の天国」=(21)=グァタパラ移住者が大集合! ニッケイ新聞WEB版より

吉永博行さん、吉永利行さん

 二河川合流点へ向かうボートは、2つに分かれた。一緒になった伊東信比古さんは、いつものようにビールを持ち込み、色んな人に配り始めた。「この旅行中、朝、昼、晩とずっと飲んでいますよね?」と山田康夫団長に聞くと、「午前中に6缶飲んでいた時もあったよ」と耳打ちされた。天晴である。
 式典のプレッシャーから解放されたかのように、横でZenkyuさんも飲み始めたので、ちゃっかり記者も伊東さんからビールをいただいた。マナウスで飲むビールは、暑さのせいか格別に美味しく感じる。
 故郷巡り一行は、席に着きガイドの話を興味深げに聞く。そうかと思えば、景色を眺めて仲間とお喋りに興じる人も。参加者らを観察していると、日本語話者が多く、グァタパラ移住地から参加した人が多いようだ。
 兄弟二人で参加していた、吉永利行さん(70、佐賀県)と弟の吉永博行さん(68、佐賀県)も、1963年にグァタパラへ移住した。だが弟は、現在ゴイアス州に住んでいる。
 「グァタパラは日本人が多くて、競争率が高くてね。日本人がいない土地に行けば、農業がもっと上手くいくと思ったんだ」と、転住した理由を説明する。20年前に移住し、その時に自分以外の日本人は一人だけだった。
 現在も日本人は3家族と少ない。そんな場所で大変なのは、なんと言っても日本食だ。「味噌や醤油は自分たちで作ったりするけどね」と苦笑う。
 故郷巡りは初参加で、「今回、グァタパラの人達が誘い合ってたくさんきているんですよ」という。そして、もう一組他州からやって来た仲間の参加者がいると教えてくれた。

菅野奈穂美さん、夫の三義さん

 ミナス・ジェライス州からやって来た菅野三義さん(66、山形県)と妻の奈穂美さん(64、島根県)も、元々はグァタパラ移住地に住んでいた。今回は弊紙を読んだ奈穂美さんの姉に誘われ、参加したという。
 グァタパラ移住地で知り合った二人の馴れ初めは、三義さんが「ちらちらと奥さんを見ていて、付き合いたいと思ってね」と声をかけたというもの。結婚後、仕事の都合でミナス・ジェライス州に引っ越した。
 三義さんと奈穂美さんに今回の旅で一番良かった所を聞くと、「トメアスーかな。式典は皆頑張っていて、思いがこもっていた。直径2メートルの大きな木を鋸で伐採して、あの広大な土地を開拓したと考えたら衝撃的だった」と印象に残った理由を語った。
 グァタパラでアマゾンに所縁がある人はいるのか尋ねてみると、一人の女性を紹介された。伊藤愛子さん(77、熊本県)は現在こそグァタパラ在住だが、戦後移住開始年の53年に入植したのはパラー州モンテ・アレグレ移住地だった。
 「移住した頃は、大木を5人くらいで取り囲んで伐採していった。30町歩分が4~5年かかったの」。しかもモンテ・アレグレ移住地から町までは40キロメートルもあり、「土地が良くて何でも栽培できたけど、売るのが大変。精米機も何もなかったし、『明治時代に戻ったみたい』という人もいたのよ」。
 辛い開拓時代に耐えられずに「自殺した人もいた」とショックな出来事を話し出し、「結婚して日本からきた若い夫婦で、奥さんが自殺した。心細くて、辛かったんでしょうね」とそっと目を伏せる。
 それでも伊藤さんにとっては、「11歳から22歳まで過ごした故郷。裸足で走り回って、住めば都だって思ったの。懐かしいわ」と微笑んだ。(つづく、有馬亜季子記者)


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 故郷巡りに参加していた伊藤愛子さんは、モンテ・アレグレ移住地に入植し、現在はグァタパラ移住地に住んでいる。記者がその人生模様に聞き入っている最中、伊藤さんはボートの外の景色をちらっと見て、「今思えば、悪い時期に生まれたわね」と独り言のように呟いた。「戦中に生まれ、学校にも行けず、〃カイピーラ〃(田舎者)でインディオのような暮らしをした」と続け、さらに「主人はモジに作った家の屋根から落ちて亡くなった」とも…。そんな経験を経て、「今はグァタパラで友達と楽しく暮らしています」と一言。男女関係のないこの逞しさこそが、開拓者の共通点なのだろう。

県連故郷巡りアマゾン=90周年に沸く「緑の天国」=(20)=神様のいたずらで舞い降りた子たち ニッケイ新聞WEB版より

丸岡ロベルトさん(中央右)、佐藤ヴァルジール会長(中央左)、高拓会の皆さん

 マナウスの夕食会は夜10時頃まで続いたため、連日ハードなスケジュールをこなす故郷巡り一行は、残念ながら途中でホテルに戻ることになった。
 だが記者は居残り、90周年事業のためにわざわざ来伯し、故郷巡りの一員としてベレンとトメアスーでも自作の「アマゾン日本人移住90周年記念バラード」を披露してきたZenkyuさんのショーの出番を待ちながら、地元民と僅かながら交流の機会を持った。
 上塚司の孫、芳郎さんの方へ目を向けると、高拓生の子孫で構成されている「高拓会」(佐藤ヴァルジール会長)の一人、丸岡ロベルトさん(72、二世)と話していた。丸岡さんは、高拓4回生の丸岡京さんの息子で、ベレン在住で汎アマゾニア日伯協会の丸岡義夫副会長の従兄弟だという。
 丸岡さんに依頼し、高拓会のメンバーを呼びかけてもらうと、二世を中心に会員らが集った。「次世代はいるのか」と佐藤会長に尋ねると、「若い人たちも入ってきていますよ。彼女は先日理事になりました」と三世の若い女性を指差す。
 さらに、その腕には子供が抱きかかえられており、「この子が四世だから、次の世代も安心でしょう」と優しい口調で語る。高拓生の歴史を継承し、自分たちのルーツを後世へ続けるこの会は、彼らの世代にも役立つものになるはずだ。

Zenkyuさん

 そう考えていると、ついにZenkyuさんの出番になった。13歳でアマゾンに移住した戦後移民・垣添惠子さんをモデルに作った「この地に舞い降りたのは」を、ギターの弾き語りで熱唱し始めた。
 《夢の大地があると聞いて/胸の鼓動が高ぶった朝/幼い心の行く先は/きっと明るい場所に違いないね/ただ広い空を眺めていた/濁った水も赤い大地も/いつか僕のこの小さな手で/必ず変えてみせるから》
 西部アマゾン日伯協会が作った90周年記念動画の中に登場したベラ・ビスタ移住地在住の橋本博美さんは、「2年間でほとんどの移住者は立ち去ってしまった」と語っていた。アマゾン特有の病魔に苦しみ、サンパウロやパラナに転住した人は数え切れない。
 7歳で移住した錦戸会長は、日本が高度経済成長期を迎えた頃、「日本はすごい国なのに、なんでお前はブラジルにいるんだ?」と言われた。どの移住地でもアマゾン移住者は熱帯病に罹り、ここは「緑の地獄」と呼ばれた。
 それが、90年を経た今、移住者とその子孫は、90周年記念動画を『緑の天国(O Paraíso Verde)』と名付けた。その理由や想いは、Zenkyuさんをじっと見つめる錦戸会長たちにとって、次の歌詞の通りかもしれない。
 《この地に舞い降りたのは/ちょっとした神様のいたずらだったとしても/おかげで手に入れたのは/かけがえのない家族の絆とそして今》
 「けして辛いことばかりではなかった」――そんな子ども移民の心情をほのぼのと歌う詞に、目を潤ませる移住者もいた。
     ☆

二河川合流点(エンコントロ・ダス・アグアス)

 16日、いよいよ最後の観光日となり、一行は朝からアマゾン観光のハイライトである二河川合流点(エンコントロ・ダス・アグアス)へ向かった。
 二河川合流点は、マナウスから下流にあり、ネグロ川とソリモインス川が合流する場所を指す。黒いネグロ川と黄土色のソリモインス川の水が混じり合わず、はっきりと境界を見ることができる。
 ネグロ川は冷たく酸性が強い水に対して、ソリモインス川は少し温かくて泥っぽく、魚も生息している。「この水温と成分の違いから、何キロにもわたって混ざり合わないらしい」と山田康夫団長が教えてくれた。(つづく、有馬亜季子記者)


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 故郷巡りに同行した、アマチュア歌手のZenkyuさん(本名=小川善久)。本業である「漢和塾」の経営の合間を縫い、作詞作曲したアマゾン90周年記念バラード「この地に舞い降りたのは」と、110周年を記念した「百と十年の轍(わだち)」の2曲を引っ提げてトメアスー、ベレン、マナウスの3カ所で歌った。しかし故郷巡り一行が歌を聞けたのは、ベレンのみだったのが少し残念。だが移民の心を揺さぶる歌詞に、しっかりとファンがつき、CDを購入する人がいただけでなく、「次はぜひグァタパラの入植祭で歌って!」と猛アピールを受けていた。既に来年の公演予定が決まりそう?乞うご期待!

県連故郷巡りアマゾン=90周年に沸く「緑の天国」=(19)=アマゾンの石川県人列伝 ニッケイ新聞WEB版より

野澤さん夫婦(前列)と辻さん、東さん、本橋さん(後列)

 西部アマゾンでは数少ない一世の野澤須賀子さん(旧姓・宮本)は、エフィジェニオ・サーレス移住地に入植した。その50年記念誌『天園』を読んでみると、1926年当時のアマゾナス州知事のエフィジェニオ・デ・サーレス氏から取った名前だという。
 同移住地は、マナウス市への生鮮食料の供給を目的に、アマゾナス州が創設した計画移住地だ。日本人移民は、17家族が58年11月10日に「あるぜんちな丸」で伯国に到着し、初めて入植した。
 同地は石川出身者が多く入植し、別名「アマゾン石川村」とも云われるという(50年記念誌36頁)。資料によれば、同県からドミニカ国に入植して成功した人物がおり、須賀子さんら宮本家も当初はドミニカ国に移住する予定だった。
 ところがドミニカ行きが打ち切りとなり、代わりとなったのがアマゾン移住だった。宮本家は、エフィジェニオ・サーレス移住地に第一次入植。同じく、西部アマゾン日伯協会の錦戸健会長も、石川県出身で同地に最初に入植している。
 その後、59年に田谷充実県知事が「南米に石川村を建設する」と選挙公約し、その際に推薦されたのが、エフィジェニオ・サーレス移住地だった。60年の第三次入植では、石川県から9家族が入植している。
 石川県から移住した宮本一家は、2年間は年3町歩分の土地を開拓していった。原始林を伐採していったのは、父と当時15歳だった兄・倫克さんだ。
 「母が反対したけど、兄は『頼むから一緒に行かせてくれ』と父についていった」という。その後、兄の倫克さんは、同地で最も大きい養鶏場を経営するようになった。
 他の日本人移民と同じく、須賀子さんも入植当時は大変だった。「マラリアで三日間気を失って死にかけた。『この子はもうダメだ』と言われたけど、まだ15歳だったから体力があって回復したの。不思議なことに、それ以降は全然病気しないのよね」と微笑む。
 須賀子さんの後ろに座っていた東博之さん(77、石川県)も、第一次入植者の一人。石川県から最初に移住したのは、この宮本家、東家、錦戸家の三家族だった。
 須賀子さんは、隣りに座っていた夫の野澤重夫さん(76、鹿児島県)と共に、現在はマナウスに住んでいる。「もう一世も残り少ない。私達がこういうイベントに参加するのは、今回で最後かもね」と少し寂しそうに呟いた。
    ☆
 アマゾナス劇場を後にし、ダイアモンド・コンベンションセンターで夕食会が開かれた。故郷巡り一行は会場に到着すると、それぞれ用意されていた席についた。

本橋さん、宮本さん、松村さん

 前県連会長の本橋幹久さん(83、鳥取県)が、何やら地元の人と親しげに話し始めた。先ほど記者がアマゾナス劇場で話した、須賀子さんの兄・倫克さんだ。
 「彼とはかれこれ50年来の付き合い。仕事の関係で知り合ったんだ」。本橋さんは、懐かしそうに思い出を倫克さんと話す。倫克さんは、エフィジェニオ・サーレス移住地の自治会長を務めていたなど、長く同地を代表する日本人として活躍している。
 本橋さんと共に倫克さんと話していた松村滋樹さんは、記者の父が鹿児島県出身だと話すと、「あそこに私と同郷の人がいるんですよ」と一人の男性の前に連れていってくれた。

鹿児島県人会の皆さん

 鹿児島県人会マナウス支部の武田興洋会長(77、鹿児島県)も、エフィジェニオ・サーレス移住地に第一次入植した家族の一人だ。「自分は高校2年で中退してブラジルに来たが、今では事業を興して大学を卒業した人を教育している」と笑う。
 母県に対する思いは深く、この日もサンパウロから訪れた鹿児島県人会の会員らと嬉しそうに交流していた。(つづく、有馬亜季子記者)

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