私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

カテゴリ: 県連主催ふるさと巡り

県連故郷巡りアマゾン=90周年に沸く「緑の天国」=(18)=マナウス 日系団体と進出企業が結束 ニッケイ新聞WEB版より

西部アマゾン日伯協会の錦戸健会長

 アマゾナス劇場の中に入るまでは、しばらく外で待機した。故郷巡り一行の中には、連日忙しい日程をこなしているため、疲れた顔で開場を待つ人も。そのまま30分程が経ち、ようやく中に入ることができた。
 地元のスタッフが出迎え、式典参加者らを劇場内に誘導する。その中には、西部アマゾン日伯協会の会長で、祭典実行委員長を努める錦戸健さん(68、石川県)の姿もあった。
 錦戸会長は、1958年に7歳でブラジルへ移住した。移住した理由は、「父が満州の開拓指導者で、日本より海外で働きたい思いがあったから」。ブラジルの学校を卒業し、日ポ両語を使いこなす、同地では稀有な存在だ。
 日伯協会の会長は57歳の時に引き受け、今年で6期12年目。だが、「40代の若手は着実に育っている」と次の世代にたすきを渡すつもりだ。
 西部アマゾン地域では、日伯協会、アマゾン高拓会、アマゾナス日系商工会議所、マナウスカントリークラブが祭典実行委員会を構成している。特筆すべきは、日系進出企業の駐在員との距離が近く、協力し合い仕事を進めている点だ。
 後ほど会った商工会議所の後藤善之会頭(51、京都府)によれば、「町が小さいのでチームワークを作りやすい」という。日伯協会と同じ建物に商工会議所の事務所を構え、さらに所属企業も58社と多くはない。
 後藤会頭は「もちろん3年前に赴任した時は、自分がこういった役割を担うとは思っていなかった。でも日系人の方々がいるので、私達は仕事ができていると思っている。それにここで働かせてもらっている以上、地域に貢献しなければと思っているんですよ」と続けた。
 そもそも同地の日系人口は、錦戸会長によれば「推定1万人」と少なく、日伯協会の会員も徐々に非日系人が増えている。人数が少ない分、地域社会に貢献する事は必要不可欠だ。
 今の日伯協会の目標は、「日本人・日系社会の良い所をさらに伝えること。日本人は戦前、ゴム景気が衰退した頃にジュートを成功させた。フリーゾーンになった後は、日系企業が商業でブラジルに貢献している。それ以外にも良い点を伝えていければ」。
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アマゾナス劇場内の様子

 アマゾナス劇場内は、豪華絢爛という言葉がピッタリだ。以前訪れた、フランスの首都・パリのオペラ座を思い出す。上は3階まで座席があり、天井にはシャンデリアのような照明でキラキラと輝いている。
 会場内を歩いていると、入り口で待っている間に少し話した地元民の野澤須賀子さん(72、石川県)の顔が見えた。マナウス在住で、11歳の時に渡伯したという。
 「父親が海外に憧れて、植民地の募集に応募したの。それで家族6人で移住してきたのよ」と自分の人生を話し始めた。(つづく、有馬亜季子記者)

県連故郷巡りアマゾン=90周年に沸く「緑の天国」=(17)=ベネズエラ難民が多いマナウス

マナウスの式典後に行われた夕食会で、乾杯の音頭を取った竹田ヴラジミル満音副会長

 ベレン市で90周年の式典を終え、一行は15日の朝に飛行機でマナウスへ向かった。空港では、トメアスーとベレンの式典に出席していた、西部アマゾン日伯協会の竹田ヴラジミル満音副会長(60、二世)と再会した。
 記者が拙いポルトガル語で話しかけようとすると、「日本語で大丈夫ですよ」とにこやかに答えてくれた。日本に4年近く住んでいたことがあり、流暢な日本語を話す。


 竹田副会長は、サンパウロ出身。マナウス在住の叔母に誘われ、東京海上日動火災保険会社で2年、三井住友で8年勤めた。その後は独立して保険ブローカーの仕事を始め、日系企業の顧客を中心に事業を展開している。
 同日伯協会では副会長を務める他、マナウスカントリークラブの会長も兼任している。マナウスは日系人が少ない印象があるので尋ねると、同日伯協会に所属している人は150家族余、最近は非日系人が増えているという。
 「風河火山という太鼓グループに所属しているのは80%が非日系人。マナウスカントリークラブで野球をする人も非日系人や、ベネズエラからの難民も多いんですよ。しかも強くて、北伯の野球大会で優勝しているんです」。
 また、マナウスには全伯で初めて州立の全日制日本語バイリンガル校「デジャウマ・ダ・クーニャ・バチスタ」(Escola Estadual de Tempo Integral Bilíngue Professor Djalma da Cunha Batista)が開校している。
 アマゾナス連邦大学日本語・文学学科が協力し、非日系人が生徒の主体だが、日本語の授業が正課として組み込まれている。珍しい公立校だ。竹田副会長は「今回の式典でも日本語の歌を披露しますよ」と話すなど教育成果に期待がかかる。
 竹田副会長はマナウスについて、「経済の落込みに加え、ベネズエラからの難民が増加し、治安は悪化している」という。軍警により難民キャンプ場が作られたことで、徐々に町の治安状況は改善しているが、「暫くこの状況は続きそうですね」と苦笑する。
 ベネズエラからの難民は、国技である野球の練習の練習に参加するため、噂を聞いてマナウスカントリークラブにも来るのだという。「全員を無料で受けさせるわけにも行かないので、人数を制限したり…可哀想ですけどね」と同地ならではの悩みを語った。
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アマゾナス劇場

 マナウスで開催された90周年式典の会場「アマゾナス劇場」は、ゴム景気により1896年に建てられた。イタリア・ルネッサンス様式の建物だ。建築材はすべてヨーロッパから輸入されており、豪華な調度品も使われた贅沢な造りとなっている。
 故郷巡りの参加者の中には、これを目当てに参加した人もいるほど有名。式典開催の1時間前には、既に開場を待つ地元民たちの列ができていた。(つづく、有馬亜季子記者)

県連故郷巡りアマゾン=90周年に沸く「緑の天国」=(16)=青森とパラーで徳讃えられた傑人 ニッケイ新聞WEB版より

移住する2カ月前の工藤一成さん(工藤栄子さん提供)

 さらに、工藤一成さんの強い意志とリーダーシップは同市の日系社会にも影響を及ぼした。イガラッペアスー日伯文化協会三十周年記念誌には、次の通り記載されている。
 《イガラッペアスー日本人会発足を目指す有志の間で工藤一成に相談しようということになる。工藤は移住後間もないが日本在住中に長く青森県会議員を務め、県会議長まで務めた事があり、経験が豊富であったからである》(イガラッペアスー日伯文化協会三十周年記念誌31頁)。

1974年、孫を玄関先で抱く工藤一成さん(工藤栄子さん提供)

 一成さんが設立趣意書、定款作成などを行い、さらに一成さんの指導の下、ギダウテ・アウヴェス・デ・アウメイダ市長に土地を無償で提供するように交渉し、1976年に会館が落成した。
 一成さんは、文協初代会長、日本語学校の初代校長を歴任。その様々な功績により1977年に叙勲を受けているが、同年5月8日に70歳で亡くなった。
 栄子さんは、「義父は何としても自分の意志を貫くというタイプで、反骨精神の強い人でした。いつも浴衣を着て、杖を持っていました」と語る。
 さらに、記者に一成さんと建立された同氏の胸像が写った写真と共に、一成さんが受け取った「頌徳の文」を送ってくれた。それには、次の通りに書かれている。
 《吾等の組合長工藤一成氏は貧農の家に生まれ苦学して倦まず。高い見識と逞しい実行力により若くして町議会議員三期副議長となる。
 更に県議会議員連続四期。県農協中央会理事、県経済連理事などを歴任す。昭和二十九年マッカーサー指令による公職追放の解除を見るや、町農業委員会長七期。更には当時七戸町農協が貯金凍結、供出米代金支払停止等のため、組合の組織が正に崩壊せんとしていた危機に、この組合の長として強く推されて就任。
 爾来(じらい)昭和四十七年の今日まで連続八期。拾九箇年の永きに亘り終始一貫赤心。組合の再建と発展のために心を砕き、遂に事務所其の他の新築数棟。拾数億円余に及ぶ取扱。組合資産内容の強化充実等。見事に難局を克服した。
 今組合長が辞め、ブラジル国に移住して人生の再出発するに当り、茲(ここ)に、その偉業を讃え、追慕し、その志を永く記念し、継承せんがために吾等相計り、胸像を建立する。敬白。昭和四十七年十一月十三日》。
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 トメアスーの式典会場で、同船者との感動的な再会を果たした尾西貞夫さんは、ベレンの式典会場でも同船者との再会に胸を踊らせていた。

同船者の町田嘉三さんと尾西貞夫さん

 ベレンの式典で、パラー州政府から叙勲を受けた町田嘉三(よしぞう)さん(73、茨城県)は、尾西さんの同船者だ。空手家で、NHKドキュメンタリー「移住50年目乗船名簿」では、移民船の中でひたすら稽古をする町田さんの姿が流れている。ベレン市で「町田道場」を開き、現在は息子達が後を継いで経営しているという。
 4人兄弟全員が空手家で、三男の町田リョートさん(41、二世)は、総合格闘家として2009年にはUFCライトヘビー級世界チャンピオンとなった。
 「実は空手の試合などでよくサンパウロには来ていて、会ったこともある」と尾西さんは話すが、同船者の肩を叩く顔は微笑んでいる。町田さんも「今日は名誉ある章を受けるだけでなく、こうやって懐かしい同船者に会えるのは嬉しい」と喜んだ。(つづく、有馬亜季子記者)

県連故郷巡りアマゾン=90周年に沸く「緑の天国」=(15)=青森県議がアマゾン移住 ニッケイ新聞WEB版より

山中正二さんと工藤ファビオ昭麿医師

 9月14日夜、ベレン市内の平和劇場(Teatro da Paz)で「アマゾン日本人移住90周年記念式典」(生田勇治祭典実行委員長)が開催された。故郷巡り一行も記念式典に出席するために、午後6時半頃に同劇場へ到着した。
 指定された席に辿り着くと、アマゾニア日伯援護協会(山本ジルベルト会長)の理事で血管外科医である工藤ファビオ昭麿(あきまろ)医師と再会した。工藤医師には、記者が書いた「アマゾン90年目の肖像」という連載で世話になった。
 「青森県会議員だった祖父について、山中さんが知っていますよ。会ったこともあるそうです」と工藤医師にパラー日系商工会議所の山中正二副会頭を紹介してもらい、前回少しだけ話を聞いた故・工藤一成さんについて教えてもらった。
 工藤医師の祖父・一成さんは、青森県会議員だった。昔JAMICで働き、移住事業に携わっていた山中副会頭は、「一成さんは、移住前にもアマゾンまで視察に来たんですよ」と当時の様子を語り、更に「自分より先に、息子2人(1人は工藤医師の父・昭南(しょうなん))がアマゾンに移住した」という。
 後日、当時の状況について工藤医師の母・栄子さんに聞くと、「義父の一成は、南米や移住事業に興味があったようなんです。県会議員時代に、移住者を引率してトメアスー移住地に訪れて、気に入ったようで。でも自分は年だったので、2人息子をそれぞれ夫婦で移住させたんです」と説明する。
 父の思いを受け止めた兄・公論(こうろん)さんと弟・昭南さんは、1966年に第二トメアスー移住地へ入植した。工藤医師は、「父は東京農業大学を卒業しているんですが、それも祖父の勧め。移住を念頭に置いていたそうです」と話しており、かなり計画的な移住だったようだ。
 その後、一成さんも日本の財産を全て処分し、73年に移住した。既に高齢だったため、トメアスーではなく、ベレン市に近いパラー州イガラッペアスー市で1200ヘクタールの土地を購入。山中副会頭によれば、「普通の移住者に比べて大きな家で、さすが議員さんという感じでしたね」と思い返す。
 移住した時は一大ニュースになったそうで、「日本の新聞にも邦字紙にも報じられたんです」。また、孫の日本語教育を考えて大量の本を詰めて移住したらしく、栄子さんは「昨年やっと必要な分だけ残して処分したんですよ」と笑う。
(つづく、有馬亜季子記者)

県連故郷巡りアマゾン=90周年に沸く「緑の天国」=(14)=移民の人生は「小説より奇なり」 ニッケイ新聞WEB版より

次女・秋実さん、三女・イルダ礼さん、四女・ミネヨさん

 その日、細田宏志さんにとってどうしても外せない用事があった。祖国から岩手県知事一行がパラグアイに訪れており、県から融資を受けていた細田さんは、歓迎会のために妻と幼い息子2人を置いて出かけた。
 歓迎会が終わり、約8キロの暗い帰り道を歩いていた細田さんは、理由のない妙な胸騒ぎがした。「早く家に帰らなければ」――はやる気持ちを抑えきれず、足早に家に帰った細田さんを待っていたのは、無残にも殺された妻の姿だった。
 「当時、細田家は融資を受けていた。それで家にお金があるという噂が流れて、ご主人がいない時に強盗に入られたんです。2人の息子は、家の外で隠れていて助かりました」。
 打ちひしがれて永久帰国を思い立った細田さんを助けようと、栄田夫妻は細田家の長男で当時3歳の茂を育てようと決心する。弟で1歳の賢治は、アスンシオン・アドベンチスタ病院で働く日系アメリカ人二世の野崎ジョセフ信雄医師が引き取った。その後、細田さんは日本へ帰り、野崎医師は賢治を連れて米国に移った。
 引き取った茂さんは、栄田夫婦の下ですくすくと育った。野崎医師のように医者になることを勧めると、「アルゼンチンのラプラタ大学を卒業して医者になったのよ」。茂さんは大学卒業後、パラグアイのアスンシオンに戻り、今も同地で働いている。
 幼い頃に離れ離れとなった兄弟は、その後、茂さんの結婚式で再会した。なんと、賢治さんも米国で医者になったのだという。その感動の再会は、『乳飲み子で別れて再会』という題で、当時のパラグアイの邦字新聞に大きく取り上げられた。
 さらに、茂さんはJICA研修で訪日した際に、実の父親と再会している。「その時に、茂が言っていたの。きっと父親の下にいたら、医者にならず全く違う人生だっただろうって。人生って分からないものね」。
 まさに『事実は小説よりも奇なり』とでも言うべき出来事だ。江藤さんが「私の同室者が凄い」と言っていたのも頷ける。だが、そもそも栄田夫妻は、どうしてサンパウロを離れる必要があったのだろうか。
 5人姉妹の次女として生まれた秋実さんは、アドベンチスタ教会で出会った、栄田祐司さんと結婚した。祐司さんは、1965年に同協会の宣教師となるべく単身で渡伯した。
 祐司さんは、移民船が北米ロサンゼルス港に寄港した時に出会った、野崎金一牧師と意気投合。その後、金一牧師はパラグアイで働く息子の野崎医師が日本人の宣教師を探していた際に、ブラジルへ移住した祐司さんを薦めた。
 早速、野崎医師は祐司さんにパラグアイ招聘を打診した。一度は断られたが、野崎医師は4度も通ってきたという。その熱意から、とうとう祐司さんは義父の小野田正次さん(秋実さんの父親)と2人でパラグアイの状況を視察することになった。
 2人が訪れた同国のラ・コルメナ移住地で、小野田さんは田中秀穂医師と運命的に再会する。田中医師は、共にアマゾンへ入植した高拓生の仲間だった。田中医師は同地に日本人が必要な理由を2人に語って聞かせ、小野田さんは移住者の大変な苦労に心を動かされた。
 サンパウロに戻り、小野田さんは祐司さんにパラグアイへ行くよう熱心に説得した。祐司さんは遂に野崎医師の招聘を受け入れ、69年に秋実さんと共にパラグアイへ移住。同国に根を張り、日系社会に生涯を捧げ、2010年に亡くなった。
 秋実さんは夫の仕事を引き継いで、新しくアドベンチスタの大学を設立するべく同地で働いている。ブラジルに戻りたいか秋実さんに尋ねると、「今はもう、私の家はパラグアイ。あの場所で生きていくわ」と凛とした声で答え、微笑んだ。(つづく、有馬亜季子記者)


□関連コラム□大耳小耳

 故郷巡りに参加していたパラグアイ在住の栄田秋実さんは、息子の茂さんの実父・細田宏志さんのその後を話してくれた。細田さんは日本に戻って再婚したが、暫くして離婚。3度目の結婚を経て、2013年に施設で亡くなったそう。「パラグアイでは養鶏をしていて、事業を大きくしようと頑張っていた。それなのに帰国しても大変で…」と肩を落とす。祖国に戻っても苦労が続く中、パラグアイに残した茂さんが立派に育った姿を見ることができたのは、何より嬉しかったのでは。

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