私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

タグ:アジア

花談議178≪キナバル山登山その2=植物編≫ 杉井さんからのお便りです。

昭子さん
無事帰国されて元通りの日常生活に戻られた様ですね。
サンパウロではドリアンを見たことが無かったですが、アマゾンで生育しているなら色々な種類のドリアンも栽培出来るかも知れませんね。
ボルネオは熱帯雨林が多く、熱帯の果物やきれいな花が多かったですが、名前の分らないのも多いのでもしお分りなら教えて下さい。
杉井

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チリモヤかアテモヤだと思うのですが。    

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JACCA(ジャックフルーツ)ですよね。

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名前は分かりません           

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タラという果物で中味は茘枝の様だそうです

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アマゾンから英国人が種子を盗み出した
ゴムの木はマレーシアに根付いています。   

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ヘリコニア(Helidonia)

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名前の分らない蘭科の花

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3,500M以上の高地に咲いていましたが、      
これもシャクナゲの一種だそうです。

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名前不明


花談議176≪キナバル山登山≫ 杉井さんからのお便りです。

今年は異常な寒気で寒くてたまらないので先月末ボルネオのキナバル山
(4,095.2m)登山に行って来ました。
海抜ゼロに近いコタキナバルは日中気温30度で半袖。そこから車でキナバル自然公園(1,564m)に1泊、登山口(1,866m)から山小屋(3,273m)に更に1泊して翌朝ご来光を見るため2時半に出発、5:45頂上着でしたが、残念ながら雲が多くてご来光は見れませんでした。山小屋で5-6度、山頂でも0度くらいで日本の夏山と同様でそんなに寒さを感じませんでした。
標高差2,200mの歩行距離が僅か8.72kmというのは登山道が如何に急勾配かを表しており、前半4kmは段差の大きい木の階段、後半は岩だらけの道で
登り下りとも結講疲れました。
日本の山ではジグザグの登山道が多いのでこんな直登ばかりの登山道という
のはあまりありません。しかし1km毎にトイレと洗面所と屋根付きベンチの
ある休憩所が設けられており、山小屋も4人部屋や6人部屋でも2段ベッドで
一人ずつ寝れ、共同シャワー室もあるので日本の山小屋よりも快適です。
世界一大きな花、ラフレシアや食虫植物のウツボカズラ(Nepenthes)や名前
の分らない多くの蘭の花が見れたし、ドリアンマーケットでドリアンを食し
たりで満足しました。
マレーシアは華僑が経済を支配している様で、中国語の看板が多く北京語
が英語同様に通じます。
杉井

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ブラジル放談・男のエッセイ ≪映画「戦争にかける橋」の実話≫ by 東海林 正和


神戸高校の後輩にあたる東海林正和さんは、硬軟織り交ぜたブラジル放談・男のエッセイと云う読み応えのあるBLOGを開設していますが、今年に入りタイ国バンコックにお嬢さんのマリーナさんを伴って訪問され「クワイ訪問ツアー」に参加高校生時代に見た「戦場にかける橋」の感動的なシーンを想像して胸を躍らせて参加したとの事。
現実に真の辺りにした実話とは?思いもよらぬものでマリーナさんを同行させたのが良かったかどうか?大きなショックを受けたとの事実を彼独特の筆力で語る。40年!!寄稿集にも残して置きたい名文となって居る。
写真は、75才に近い年には見えない若々しい東海林君のクワイ川に掛かる橋を背景にした写真を使わせて貰った。

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今年(2018)1月19日から一週間の日程で、私は娘のマリーナと、商用でタイ国のバンコックを訪れた。時間に余裕があったので、現地ツアーに参加することにした。ホテルのカウンターにあったツアー案内を見ると、何と「クワイ川訪問ツアー」というのがあるではないか。「もしや…」と思って係りの女性に訊いてみると、紛れもなく、その昔、ブラジルに移住する前に日本で観た映画「戦場にかける橋」の舞台になった、あのクワイ川を訪問するツアーだ。途端にあの感動的なシーンの数々と、軽快な「クワイ川マーチ」のメロディーが、鮮やかに脳裏に蘇った。私は一も二もなく、ツアー参加を申し込んだ。
ツアー当日は期待で胸が躍った。朝7時に出迎えのヴァンでホテルを出発し、午前中に水上マーケットを見学した後、勇躍クワイ川へと向かった。西に向かって走ること約2時間、ヴァンはクワイ川の畔にあるレストランに横付けされ、バルコニーのテーブルから川を見下ろしながらの昼食となった。眼下のクワイ川は、川幅が約300メートル位であろうか、水をとうとうとたたえてゆったりと流れている。200メートルほど下流に目をやると橋が一つ見える。ガイドさんによると「実物の橋」とのことであるが、イメージしていた木製の橋ではなく鉄橋のようだ。
昼食を終え、期待に胸をふくらませながら、徒歩で橋へと向かった。1943年に架けられた「戦場の橋」は、確かにそこに存在していた。しかし、橋のたもとに備え付けられた小さな台座の上に張り付けられた一枚の銅板を見た時、私の胸にあった期待は、急激に萎んでいった。
そこには、1942年から1943年にかけて、旧日本軍による、タイのノンブラードウィックからビルマのタムビザヤ間、約415kmの鉄道建設に駆り出された捕虜と労働者の数と、その死者の数が刻み込まれていたのである。アジア人労働者200.000/死者80.000、イギリス人捕虜30.000/死者6.540、オランダ人捕虜18.000/死者2.830、オーストラリア人捕虜13.000/死者2.710、北米人捕虜700/死者356、日本人・韓国人15.000/死者1.000と記されていた。インターネットで歴史の供述をひもとくと、鉄道建設中に、約1万6千人の連合軍捕虜が、飢餓、疾病と虐待のために死亡したとされており、現地で駆り出されたアジア人労働者の死亡数はその5倍にも及んだと記されている。
映画「戦場にかける橋」では、旧日本軍の捕虜となったイギリス軍兵士たちが、名誉と誇りのために日本軍に替わって橋を建設し、その開通式当日に、同橋を自らの手で爆破したことになっているが、その内容は英米合作映画の完全な脚色であり、事実とは大きくかけはなれていることが、実際にクワイ川に足を運んだ誰しもが、認識させられる。
この鉄道は、1942年の旧日本軍によるビルマ占領を契機として着工されたもので、ビルマ側、タイ側の双方から建設が進められた。全工程で最も難工事とされていたのが、クワイ川に架ける永久橋の建設とその前後のルートであった。設計・建設の主体となったのは、旧日本軍の優秀な橋梁建設専門部隊であったが、クワイ川は急流のため、工事は難航を極めたため、永久橋完成までの間に使う資材運搬用の橋梁として、永久橋の下流に木製の橋が架けられることになった。木橋は1942年12月に完成し、次いで永久橋の鉄橋も1943年5月には完成した。
映画「戦場にかける橋」のモデルになったのは、この木製の橋の方であると思われるが、歴史の供述には、イギリス軍捕虜たちによって橋が建設されたことや、同橋が開通式の日に爆破されたという事実は存在しない。
一方の永久橋は、1945年に連合軍の空爆により中央部が破壊されたが、鉄橋が不通の間、替わって木製橋が輸送の役目を果たしたとされている。永久橋の鉄橋は、戦後賠償の一環として、日本の横河橋梁によって修復されたが、修復部分は旧来の丸型橋梁ではなく、角型橋梁になっており、現在もその姿をクワイ川にとどめている。一方、木製の橋は1946年の大雨による増水で、姿を消している。
クワイ川を訪れた日本人たちが、さらにダメージを受けるのは、「鉄道犠牲者博物館」の存在と、その前方に広がる犠牲者たちの墓地である。撮影禁止になっている博物館の内部には、旧日本軍が鉄道建設にあたって、捕虜と労働者に対して行った過激な虐待行為が、パネル、写真、ビデオなどで、生々しく展示されており、見学者たちの驚愕と義憤を誘う。とりわけ「死者の数は、鉄道の枕木一本当り500名に及んだ」と記されたプレートの存在は、事実の凄惨さを如実に物語っている。さらに2階に上がると、窓からのぞめる芝生を敷きつめた広大な墓地と、おびただしい数の死者の墓標プレートが、見学者たちの心痛にさらに追い打ちをかける。
私は、クワイ川ツアーに娘を伴って参加したことを、少なからず後悔している。というのは、わがJBC社は、「日本文化をブラジルに伝える」ことをコンセプトにした出版社で、娘のマリーナは、日本、日本人、日本文化が大好きで、私の後継者として誇りをもって仕事に取り組んでくれている。戦争を知らないブラジル生まれの彼女にとって、今回の体験は、知られざる日本人の一面を垣間見た訳で、かなりショックだったようだ。彼女は口では「戦争だから…」とコメントしていたものの、帰路のヴァンでは終始無言だった。
夕食の時に、私は「日本は大きな代償を、30万人の原爆犠牲者で支払ったのだよ」と言ってはみたものの、それがどこまで彼女の慰めになったものやら…。
帰路の機内で、改めてYOU TUBEから映画「戦場にかける橋」を観た。事実を知った後では、昔の感動がウソの様に空しく感じられ、あの軽快な「クワイ川マーチ」もただうつろに耳を素通りするだけだった。映画には、旧日本軍の捕虜虐待シーンなどは、描かれていなかったことが、せめてものなぐさめである。ちなみに、現地ガイドによると、映画はタイのクワイ川ではなく、スリランカにある河川で撮影された、とのことである。(完)



ブラジル放談・男のエッセイ ≪映画「戦争にかける橋」の実話≫ by 東海林 マルコス

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映画の中の「戦場にかける橋」
今年(2018)1月19日から一週間の日程で、私は娘のマリーナと、商用でタイ国のバンコックを訪れた。時間に余裕があったので、現地ツアーに参加することにした。ホテルのカウンターにあったツアー案内を見ると、何と「クワイ川訪問ツアー」というのがあるではないか。「もしや…」と思って係りの女性に訊いてみると、紛れもなく、その昔、ブラジルに移住する前に日本で観た映画「戦場にかける橋」の舞台になった、あのクワイ川を訪問するツアーだ。途端にあの感動的なシーンの数々と、軽快な「クワイ川マーチ」のメロディーが、鮮やかに脳裏に蘇った。私は一も二もなく、ツアー参加を申し込んだ。
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川幅300メートルの、とうとうと流れるクワイ川
ツアー当日は期待で胸が躍った。朝7時に出迎えのヴァンでホテルを出発し、午前中に水上マーケットを見学した後、勇躍クワイ川へと向かった。西に向かって走ること約2時間、ヴァンはクワイ川の畔にあるレストランに横付けされ、バルコニーのテーブルから川を見下ろしながらの昼食となった。眼下のクワイ川は、川幅が約300メートル位であろうか、水をとうとうとたたえてゆったりと流れている。200メートルほど下流に目をやると橋が一つ見える。ガイドさんによると「実物の橋」とのことであるが、イメージしていた木製の橋ではなく鉄橋のようだ。
昼食を終え、期待に胸をふくらませながら、徒歩で橋へと向かった。1943年に架けられた「戦場の橋」は、確かにそこに存在していた。しかし、橋のたもとに備え付けられた小さな台座の上に張り付けられた一枚の銅板を見た時、私の胸にあった期待は、急激に萎んでいった。
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橋のたもとにある台座の上に張りつけられた銅板
そこには、1942年から1943年にかけて、旧日本軍による、タイのノンブラードウィックからビルマのタムビザヤ間、約415kmの鉄道建設に駆り出された捕虜と労働者の数と、その死者の数が刻み込まれていたのである。アジア人労働者200.000/死者80.000、イギリス人捕虜30.000/死者6.540、オランダ人捕虜18.000/死者2.830、オーストラリア人捕虜13.000/死者2.710、北米人捕虜700/死者356、日本人・韓国人15.000/死者1.000と記されていた。インターネットで歴史の供述をひもとくと、鉄道建設中に、約1万6千人の連合軍捕虜が、飢餓、疾病と虐待のために死亡したとされており、現地で駆り出されたアジア人労働者の死亡数はその5倍にも及んだと記されている。
映画「戦場にかける橋」では、旧日本軍の捕虜となったイギリス軍兵士たちが、名誉と誇りのために日本軍に替わって橋を建設し、その開通式当日に、同橋を自らの手で爆破したことになっているが、その内容は英米合作映画の完全な脚色であり、事実とは大きくかけはなれていることが、実際にクワイ川に足を運んだ誰しもが、認識させられる。
この鉄道は、1942年の旧日本軍によるビルマ占領を契機として着工されたもので、ビルマ側、タイ側の双方から建設が進められた。全工程で最も難工事とされていたのが、クワイ川に架ける永久橋の建設とその前後のルートであった。設計・建設の主体となったのは、旧日本軍の優秀な橋梁建設専門部隊であったが、クワイ川は急流のため、工事は難航を極めたため、永久橋完成までの間に使う資材運搬用の橋梁として、永久橋の下流に木製の橋が架けられることになった。木橋は1942年12月に完成し、次いで永久橋の鉄橋も1943年5月には完成した。
映画「戦場にかける橋」のモデルになったのは、この木製の橋の方であると思われるが、歴史の供述には、イギリス軍捕虜たちによって橋が建設されたことや、同橋が開通式の日に爆破されたという事実は存在しない。
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実在の「戦争に架ける橋」中央部の角型橋梁が修復された部分
一方の永久橋は、1945年に連合軍の空爆により中央部が破壊されたが、鉄橋が不通の間、替わって木製橋が輸送の役目を果たしたとされている。永久橋の鉄橋は、戦後賠償の一環として、日本の横河橋梁によって修復されたが、修復部分は旧来の丸型橋梁ではなく、角型橋梁になっており、現在もその姿をクワイ川にとどめている。一方、木製の橋は1946年の大雨による増水で、姿を消している。
 
 
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鉄道犠牲者博物館
クワイ川を訪れた日本人たちが、さらにダメージを受けるのは、「鉄道犠牲者博物館」の存在と、その前方に広がる犠牲者たちの墓地である。撮影禁止になっている博物館の内部には、旧日本軍が鉄道建設にあたって、捕虜と労働者に対して行った過激な虐待行為が、パネル、写真、ビデオなどで、生々しく展示されており、見学者たちの驚愕と義憤を誘う。とりわけ「死者の数は、鉄道の枕木一本当り500名に及んだ」と記されたプレートの存在は、事実の凄惨さを如実に物語っている。さらに2階に上がると、窓からのぞめる芝生を敷きつめた広大な墓地と、おびただしい数の死者の墓標プレートが、見学者たちの心痛にさらに追い打ちをかける。
 
 
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広大な犠牲者の墓地に佇むマリーナ
私は、クワイ川ツアーに娘を伴って参加したことを、少なからず後悔している。というのは、わがJBC社は、「日本文化をブラジルに伝える」ことをコンセプトにした出版社で、娘のマリーナは、日本、日本人、日本文化が大好きで、私の後継者として誇りをもって仕事に取り組んでくれている。戦争を知らないブラジル生まれの彼女にとって、今回の体験は、知られざる日本人の一面を垣間見た訳で、かなりショックだったようだ。彼女は口では「戦争だから…」とコメントしていたものの、帰路のヴァンでは終始無言だった。
夕食の時に、私は「日本は大きな代償を、30万人の原爆犠牲者で支払ったのだよ」と言ってはみたものの、それがどこまで彼女の慰めになったものやら…。
帰路の機内で、改めてYOU TUBEから映画「戦場にかける橋」を観た。事実を知った後では、昔の感動がウソの様に空しく感じられ、あの軽快な「クワイ川マーチ」もただうつろに耳を素通りするだけだった。映画には、旧日本軍の捕虜虐待シーンなどは、描かれていなかったことが、せめてものなぐさめである。ちなみに、現地ガイドによると、映画はタイのクワイ川ではなく、スリランカにある河川で撮影された、とのことである。(完)

≪エベレスト街道トレッキング≫ 杉井さんからのお便りです。


『日本百名山登頂を達成したら世界一のエベレストが見たくなって急遽11/3 - 14エベレスト街道トレッキングに家内と行って来ました』と云う杉井さんのお便りを頂きました。日本百名山登頂の過程を何時も送って頂きFLWしてきましたが、今回のエべレスト街道トレッキングを40年寄稿集にも収録して置きたいと思い纏めて見ました。奥さんも同伴のエベレスト街道トレッキングは、日本百名山と違う意味で登山家としても忘れ難いものになったようです。私の3女小百合は、エベレスト界隈を1ヵ月間歩き回ったとの事で杉井さんと同じ街道をトレッキングしたのではないかと思います。
写真は、エベレストを背景にした多分奥様が撮った写真を使わせて貰うことにしました。

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和田さん、皆さん
日本百名山登頂を達成したら世界一のエベレストが見たくなって急遽11/3 - 14エベレスト街道トレッキングに家内と行って来ました。
日本発のツアーだと自由が利かないし、高齢者が他の皆さんの足手まといになってもと思い、現地のトレッキング会社にポーターガイド付きの個人旅行を依頼しました。カトマンズから往復5日の行程です。
カトマンズ(標高1,500m)から小さな飛行機で25分、ルクラという町(標高2,850m)に着き、そこからナムチェバザールというシェルパの村(標高3,450m)まで約20kmの街道を途中ロッジに1泊して歩きます。
街道は村々の生活道路ですが、非舗装で岩がゴロゴロした所や石段があったりで車やバイクは通れません。輸送手段はゾッキョ(ヤクの雌と牡牛を交配したもの)とロバとシェルパ族のボッカです。欧米人(ドイツ人とロシア人、北欧系が多い)や韓国人、中国人のトレッカーが行き交う中、ゾッキョやロバとのすれ違いで6ケ所ある吊り橋では結講待ち時間もありました。道はゾッキョやロバの糞だらけですが、当初気になって避けていたもののその内気にならなくなりました。
ロッジのベッドには布団や毛布は備わっていますが、暖房は無くて寒いので持参した寝袋を中に入れて寝ました。日本の山小屋と違ってホットシャワーが有料で使え、WIFIも有料で使えました。朝晩は冷えますが日中歩行中は日差しが強く汗ばむ程でした。ロッジの食事は大抵朝はトーストかチャパティ(インドパン)夜はダルバート(豆スープとカレーと野菜炒めを白飯に掛けて食べる)で、昼食も途中のロッジかレストランでダルバートかチョウメン(焼きそば)が主体の素食でした。一度ヤク肉のステーキに挑戦しましたが、鯨肉の様に固くて美味しくはありませんでした。シナモンを少し入れたミルクティーは美味しくて朝昼晩良く飲みました。
全行程天候に恵まれ、特にナムチェ村からシャンボチェの丘(3,880m)に登ると日本人経営のエベレストビューホテルのテラスからヒマラヤ山群の4巨峰、ヌプツェ(7,864m)、エベレスト(8,848m)、ローツェ(8,518m)、アマダブラム(6,812m)が雲一つ無い青空にくっきりとそびえ立つ勇姿を一望出来、今回の目的を果たして大満足でした。
日本人トレッカーにもロッジや道中で会いましたが、ネパール好きのリピーターが多く、ナムチェから更に奥のエベレストベースキャンプ(5,364m)、カラパタール(5,545m)、ゴーキョピーク(5,360m)まで行って来た人が多かったのには驚きました。そこまで行けばエベレストがもっと間近に見れますが、高山病を考えると自信がありませんでした。
もう10歳程若ければ挑戦したでしょうが。
ナムチェ村への帰途立ち寄ったクムジュン村の寺院ではイェティ(雪男)の頭皮を見ましたが、本物かどうか怪しいものです。
国内フライトの遅延や天候を考慮して十分な予備日を設けていたのでカトマンズへ戻ってから世界遺産の寺院巡りをしましたが、2年前の大地震で建物の多くは崩壊して修復中でした。ヒンズー教とチベット仏教は寺院が分れているものの混合している所が多く、ユダヤ教からキリスト教が生まれた様にヒンズー教から仏教が生まれたのだと感じました。しかし信仰心が厚いのかどの寺院も信徒で混んでいました。
パシュパティナート寺院では川沿いで火葬して遺灰を川に流す光景も見ましたが、これはインドも同様です。
ネパールは人口30百万人の内首都カトマンズに3百万人住んでいますが、丁度30年前の中国の様に道路はオートバイ天国で信号や交通警官は機能しておらず、埃っぽくて皆マスクをして歩いています。インドや中国からの輸入品が多く、人件費は安いものの基幹産業が無いので30年後に今の中国の様になるのは難しいと思われます。日本への出稼ぎが多い為か親日的で、街中でも日本語を話す人が結講居て何でも親切に教えてくれます。財布を落としても出て来るというほど治安は良いそうです。そういうネパールが気に入って被災地の復興活動や学校建設などの支援活動をしている日本人も結講多い様です。

しゅくこさん
村人達はゾッキョやヤクの糞を乾燥させて燃料として利用しています。餌は放牧のため草を食べています。
雄のゾッキョはシェルパ族には貴重な輸送手段ですね。
動物たちの写真をもう少し紹介しましょう。

麻生さん
ヤクは毛が長くてヤクウールとして毛糸にして帽子、セーター、ブランケットなどに使用されますが、4,000m近い高地でしか生息出来ないのでもっと低地でも力作業に使えるゾッキョが開発されました。しかしヤクの雄と雌牛の交配ではあまり性能が良くないそうです。荷物の運搬作業に使われてるゾッキョは雄で、雌は乳牛としてバターやチーズ製造に使われたり牡牛
との交配に使われます。なお雄のゾッキョは生殖能力が無くて一代限りなので重労働だけさせられて哀れなものです。
ゾッキョやロバの隊列はシェルパが後ろから声を掛けて追い立てますが、行き違う時は谷側に寄ると近寄られて滑落する恐れがあるので必ず山側に寄って避けます。それでも一頭が近寄って来たので後ろすざりをしたらひっくり返ってしまいました。


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