私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

タグ:兵庫県

<<好司・17才・神戸>> 40年!! ホームページより転載


40年前の奉加帳が見つかったと思えば、今回は45年前の神戸高校時代2年と3年生の二年間机を並べて勉強?した同級生の一人山本啓詔君からの暴露記事が寄せられました。彼は昨年休暇を取り南伯及びアルゼンチンに旅しており、数日ポルトアレグレ近郊を一緒に旅をしながら昔話を聞いたがその記憶力には、驚嘆した。その抜群の記憶力を誇る彼が思い出す事もなかった高校時代のエピソードを綴って呉れている。自分でも記憶が定かでない半信半疑の気持も強く作り話ではないかと思う事しきりですが青春の一コマとして記録して置くのも無駄ではないかとの判断から敢えて掲載して置きます。写真は大震災後新しく立て替えた神戸高校の昔のまま残した正面玄関の部分で撮った筆者山本啓詔君です。来年度には神戸高校卒業45周年の記念同窓会をイグアスの滝を見ながら開催しようと企画しておりもし実現すればその受け入れ準備に忙しくなりそうです。

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「おはようございまーす!」と蛮声を張り上げて教室の後部ドアをガラリと開けて駆け込んできたのは遅刻常習犯の好司君。既に授業は始まっている。彼の最も苦手な教科、「幾何」である。今から45年前、ご記憶の方もあろうが、当時、数学は「解析」と「幾何」に分かれていた。遅刻しておきながら、教壇の真ん前が彼の席。毎年新学期にくじ引きで決まるので好きな席に座れない。着席と同時に受験英単語の暗記に着手。言うところの「内職」である。静かにしておれば良いのに、小声でリピートする。堪り兼ねて先生が一喝。「お前は先生を嘗めとるのか。数学の授業中に英語の本を出してブツクサ言うとるが、他の者に甚だ迷惑だ。直ぐ立ち去れ!」「先生のおっしゃる通り出て行きますが、出席表は必ず出席にしておいてくださいよ」と言い残して、図書館へと急ぐ。遅刻してでも授業に出る目的は只一つ。単位取得に出席率が不可欠となっているからである。彼は志望校を早稲田大学政治経済学部に絞っていた。受験科目は、国語・英語・日本史の三科目のみ。従って、彼には数学は必要無い。本人は不得手な科目は無いと言うが、実は理数系が苦手であった。

 そうそう思い出した。こんなことがあった。あれは確か2年の2学期の期末試験「幾何」で彼が初めて10点を取った。その時は、欣喜雀躍、天井に頭がぶつからんばかりにはしゃいだ。「とうとう数学で点が取れた」と。その問題とは「時計の針が4時代で長針と短針が丁度重なり合うのは何時何分か」である。方程式の意味さえ分からないから解ける筈が無い。そこで、彼の答案は「私の腕時計に依れば、大体4時22分頃である」とまあこんな調子。先生も恐らく唖然とされたであろう。無視すれば良いものを、何と10点を与えたのである。ホンにまあ長閑な時代ではあった。

 テストと言えば、序でに触れておきたい事件がある。もう既に時効は成立しているので今更物議を醸すこともなかろう。それは卒業試験のときに起こった。先にも触れた通り、彼は苦手な数学もパスしなければ卒業できず、入試どころではない。そこで窮余の一策として、「替え玉作戦」に出たのである。こう言うときは世の中上手く出来たもので、同じ悩みを抱えている者が5万と居る。大阪大学を目指していた級友が、これまた「国語」が不得手。特に「古文」で苦戦を強いられていた。

 「いずれの御時にか 女御更衣あまた侍い給いけむ中に いとやんごとなききはには有らねど きはめてときめき給う有りけれ…・」「月日は百代の過客にして 行き交う人々もまた旅人也…」「往く川の流れはたへずして しかももとの水には有らず。淀みに浮かぶうたかたは かつ消えかつ結びて留まりたるためしなし…」「徒然なるままに ひぐらし硯に向かひて こころにうつりゆく よしなしことを そこはかとなく書き尽くれば あやしふこそ ものぐるほしけれ」そして、極め付けは「しがねえ恋の情けが仇、命の綱の切れたのを どうとりとめてか木更津から めぐる月日も参年ごし 江戸の親には勘当受け 拠所なく鎌倉の八七郷は食い詰めても 面に受けたる看板の 傷がもっけのせいうぇいに 切られ与三と異名を取り 押し借り強請りはなろおうより 馴れた時代の源冶だな そのしらばけが 黒塀に格子作りの囲い者 死んだと思ったお富みたぁ お釈迦様でも 気がつくめえぇ…・」。

 ありゃまあ、「古文」と聞いただけで、当時がむしゃらに暗記した入試に頻出する作品の冒頭部分を未だ性懲りも無く憶えている。因みに、「源氏物語」「奥の細道」「方丈記」「徒然草」「お富み与三郎・源冶店の場」の一節の羅列である。余計な遠回りをしてしまって申し訳無い。本題に戻って、そうそう、「替え玉」の経緯をご報告しなければならない。彼らは中学時代からの竹馬の友。異論が有ろう筈が無く、即刻商談成立。彼はパートナーの氏名で「古文」の答案を提出し、95点をゲット。本人分は逆に落第点で、後日「追試」に参加し、このときは勿論本人の氏名で答案を書き見事パス。一方、「数学」の方は友人の答案で100点満点。これが結果的に良くなかった。担当教官は先刻承知していた。「あの数学音痴の和田が解ける筈が無い。しかも、筆跡が全く別人のものである。先生を愚弄するにも程が有る」と怒り心頭に発して、早速職員室へ呼び出された。「同じ問題をここで解け」と再試験を強要された。その時の彼の返答が振るっていた。曰く、「先生、そんなムリなことを生徒に押し付けられては困ります。物事には、T.P.O.、詰まり、時と場合に依って解ける問題でも解けないこともあります。今は、残念ながら、絶不調でバイオリズムが狂っていて解答能力が最低レベルにあります」と。「お前を相手にしていては日が暮れてしまう。帰って宜しい」そして、無事卒業。57倍の競争率をクリアして「都の西北 早稲田の杜にそびゆる甍は我らが母校…」を高歌放吟する身となった。

 今、日本でも安易な教育方針改革が槍玉に挙がっている。例えば、学童の負担を軽減することを目的に、円周率πを3と憶えさせる、と言う。これで良いのか。それこそ、40年前の好司君の「私の腕時計によれば…」のような子供達が陸続と生まれることになる。
3.1415926535897932384626433832795628…..まで必要は無いが、せめて3.14程度は常識の線であろう。「まあ、それで良いんじゃない」と大方のママさん連中から賛意の声が上がるかも知れない。ブラジルも日本も同じこと。世の親達は真剣に子供達の将来を考えていない。無責任極まる。ところで、ブラジルでは、子供が19才になると、親権を放棄して保護者の責任が無くなる、由。それにひきかえ、日本では二十歳を過ぎても乳離れが出来ず親の脛齧りをして、好き勝手な日々を過ごしている輩が多いのは嘆かわしい。その証拠に、所謂「フリーター」と称する定職に就かない若者が多い。勢い、少年犯罪も毎年漸増している。

 神戸に生まれ育った紅顔の美少年好司君は、物ごころがついた頃から海外への雄飛を夢見ていたが、それは逐年膨らみ続けた。高田馬場のキャンパスで「海外移住研究会」なる同好会を立ち上げ、自ら海外生活プランを着実に構築して行った。大学2年のとき、休学してブラジルへ実地検分に出掛けたほどである。その集大成として、学卒後渡伯した。

 翻って、彼は日本に居ても十分活躍出来る場が有ったことは衆人の認めるところである。これは決してお世辞では無い。敢えて言わせて貰えば、一種の「頭脳流出」である。第二の故郷ブラジルのために、また、青年初期まで過ごした日本のために、持てる力を発揮されるよう遠い日本の空から祈り続けている。ただ、苦言を呈するなら、ボランティア精神が旺盛な人が陥り易い「独り善がり」な言動を避けるよう自戒して頂きたい。 

 時は移り、紆余曲折を経て、彼は現在ポルトアレグレを拠点として、在留邦人の手足と
成るべくボランティア活動を続けている。他人様のためを思う気持は学生時代と変わらない。否、むしろその度合いは強まっているようである。

 ところで、筆者は神戸の貿易会社に勤務しているが、職場の上司は「営業推進室」のマニジャーで、日系三世のブラジル人である。

 望むらくは、高校時代の同級生和田好司君が、名実ともに日伯友好の架け橋となろうと言う初志貫徹を念じつつ、一先ず筆を措くこととする。

      2002年4月3日
     
                  兵庫県三田市   山本 啓詔

 

≪神高卒業60周年の集い・神戸第一楼2018.5.13 ≫ リオの山下君から写真が届きました。

和田君
関君、昨年5月に亡くなっていたのですね。
お互いに長生きしましょう。
山下 日彬

これは2018.5.13 神戸の中華店で開いた60周年の集い。

この時は関氏は、車いすに乗って参加しました。立派な挨拶でした。神高の現況を皆に詳しく説明をしてくれました。

あれが最後の挨拶で息苦しそうで、震災のアスベストによる肺がんでした。その後に亡くなっています。

今回、五月に京都で会合を予定していますが、一回忌の集まりとなります。  中川    March 6, 2019 8:33 AM

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「忘れなぐさとスナフキン」川越 しゅくこ 


和田さ~ん & みなさまへ  しゅくこです
6本目の指はそろそろ消えていきそうですか? もう2万歩あるけているそうですから、カリフォルニア旅行もたのしみになってきましたね2:30
さて、春によせて「忘れなぐさとスナフキン」を書いてみました。もしお時間が許せばご覧いただくと嬉しいです。もう3amになりました。飛び字や抜けている字があるような気もしますが、眠気に勝てなくなり、そのまま送らせていただきます。
おやすみなさ~い。
上記のような書き込みに寄せて送って頂いた掲題の『忘れなぐさとスナフキン』を40年!!ホームページに残して置くことにしました。作家としてのさり気ない日常生活のちょっとした出来事を幻想的で繊細なタッチで纏め挙げられる筆力に感心します。

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いつかだれかにもらった一本の忘れなぐさ。それはいま、無数の青い小さな花をいっぱいに咲かせて庭中を染めている。じゅうたんのようなその陽だまりに座り込んで、わたしはスコップの代わりに素手を、ほくほくした柔らかい土のなかにぐっ~と深くもぐらせる。春の土は毛布のように温かく、同時にひんやりした野生の秘密もはらんでいる。
指先に忘れな草の根っこをからめてそっと引き抜き、20本ばかりそれぞれの小さなポットにいれ、「ご自由に何個でもお持ち帰りください」と玄関前の通りに並べた。
翌朝、見るとみんな無くなっていた。このニュータウンは一戸建ても多いが、それ以上に高層マンションの住民も多く、散歩を楽しむコースはまわりにたくさんある。私の小さな庭もそんな通りに面している。
小さな庭に増えた苗を整理できたうえ、どんな人が立ちどまり、どれにしょうかとちょっと思案し、決心してそっと手にする、微笑みながらそこをたち去る・・・そんなシーンを想像するだけでワクワクした。
数日後、だれかから、「お礼」の一文字を添えて、金色のシャワーのようなミモザの束が玄関前に届いていた。初夏が来る頃には別の筆跡で「忘れなぐさをありがとうございました」と添え書きをして、両手にあまるほどの真っ白な柏葉アジサイの花束が門扉の内側に置かれていた。
無名のプレゼントは平凡な生活者にとっては予期せぬドラマティックな出来事である。名無しのごんべえさん2人は筆跡から別々の人らしいが、不在中に届けられたのでお礼のいいようがない。唯一、その一部始終を知っているのは、そばの花壇に30年も住んでいる身長20cmくらいの陶器の置物、スナフキンだけである。花に水をやるときにはその水滴を気持ちよさそうに浴びていたスナフキンは、この場で足を止めた人たちをウィンクでもして迎えていたのだろうか。
わたしの息子は幼児期、どこかおっとりしたムーミンに似ていた。「ムーミン一家」を読むことは、毎晩のベッドタイム・ストーリーの定番で、その中にムーミンの親友として登場するのがスナフキンだ。
「きみはここを出ていくつもりなんだろう?」ムーミンはちよっとさみしくスナフキンに訊ねる。「ああ、春にはもどってくるよ。じゃーね、さようなら」

そう言ってふらっと旅に出ていく、孤独と音楽を愛する自由な旅人、スナフキンは私たちの人気の妖精であった。

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2年目の春がきた。その季節になるとまたミモザと柏葉アジサイが無名の人から届けられた。玄関前に並べた20鉢の忘れなぐさも一日ですぐに売り切れた。
しかし、思いがけないことが起こった。スナフキンが突然消えてしまったのだ。この平和なニュータウンタウンでは玄関前の花壇に高価ではないが陶器の白雪姫や三匹の子豚などを置いて童話の世界を楽しんでいる家庭が多い。なので、この突然の出来事にわたしはショックを受けた。あのスナフキンがだれかに連れ去られたと思うとうろたえ、怒りと口惜しさで悲しくなった。不届きものはきっと醜い顔で薄笑いを浮かべながらスナフキンの首に手をかけ、引っこ抜いて連れていき、どこかのごみ箱にでも捨て去ったのだろうか。それでは物語と話の筋が違い過ぎる。
お金を出せば直ぐに買えるという問題ではない。
盗まれたという経験は敗戦後のどさくさの時期にもあった。時代的にも世相的にも、日本人はみんなその日の食べ物に飢えていたのに、世間知らずのわたしの両親は無防備だった。玄関先に置いていた真鍮の塵とりが幼児であったわたしの目の前であっという間に持っていかれた。あの時の泥棒の暗い目つきはいまでも覚えている。また、お風呂屋さんで脱衣かごに脱いでおいた、ネル地の花模様のパジャマが無くなったりもした。人は生きていくために必死だった。しかも自分の中にも同じ種類の暗い密かな思いが潜んでいることも否定できなかった。ある程度仕方がないという暗黙の許しや了解が、国民のどこかにあった。
日本人は1945年の敗戦から懸命に働き70年近くたったいま、世界の経済大国になっている。そんな現代にあって、
たとえば、ホテルのアメニティグッズで持ち返って良い物と悪い物が明らかに分かるのに、バスタオルやローブ、ポット、あげくはテレビまで持ち出す人がいるという。また農家の収穫目前の作物がごっそり盗まれた事件もある。捕まらなければ何をやっても良いと思っているのだろうか。面白半分と自分が被害者にどれほど酷い事をしているか想像力が無い。そんなことを思うと、わたしはますます腹立たしくなった。これをいたずら半分の盗みと言わずして、どう解釈したらいいのだろうか、わたしにはわからない。戦後の日常茶飯であった盗みの方がまだ許せるとわたしはぐじぐじと思った。

あれから一年たった。こぼれたタネが地面の下からまたむくむくと起き上がって庭を青く敷き詰めた。でもスナフキンは戻らなかった。スナフキンの居たいつものスポットに思わず目をやる。増えすぎた忘れなぐさを前にしても、玄関前に出して、通りがかりの人にどうぞご自由に持って行ってくださいというあの弾んだやさしい気持ちがもう失せていた。たいていのことは忘れてしまうわたしだが、得体のしれない恨みと口惜しさでそのぽっかりあいた空間をただぼんやり眺めるばかりだった。


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目の前をふわふわとタンポポの綿毛が飛んでいく。その時、垣根のむこうに幼児のような声がした。どうやら私に声をかけている様子である。垣根の外に出て目を疑った。80才くらいの小さな老嬢がニコニコして立っていた。おかっぱの髪にちょこんと乗っかったてっぺんが山型のつば広帽子、膝までのはきなれた古いワンピース。背中に小さなリュック。スナフキンと同じスタイルですべて萌黄色だ。
「よかった。あなたにお会いできて。今日は何年かぶりにこちらまで足をのばしたの」と。「こちらでいただいた忘れなぐさ。あれからタネを飛ばして、いまうちの庭いっぱいに咲いてます。いつかあなたに会ったらお礼を言いたかったの」「そうでしたか。お会いできてわたしもうれしいです」彼女は横の花壇に目を止めた。「あら、ここにいたスナフキンは?」「いなくなりました」とわたしは口ごもった。
「盗み」と言う一言を使うにはこの場はそぐわない。スナフキンのいた美しい緑の谷間が、恨みという卑しい黒雲で覆われそうな気がしたからだ。彼女は驚いた瞳でまじまじとわたしをみた。「残念です。物語の中のスナフキンは、春になったらまた帰ってくるんですけどね」とわたしは眉をくもらせ硬い笑顔を作った。「でも自由と孤独、音楽を愛する旅人ですから、もともとここにじっととどまる妖精ではなかったのかも」と老嬢は言った。そして「・・・春がきたから、ここにではなく、ムーミン谷に戻ったのかもしれませんよ」とほほ笑んだ。互いに相手の名も知らないけれど、2人がわかる物語の世界に数瞬一緒に遊泳した。「そんなスナフキンが好きでね。ほら、この帽子も服も、全部自分で縫いましたのよ」と言った。忘れなぐさを映したような灰色がかった瞳も、幼女のような小声も、笑顔に刻んだ皺でさえ魅力があった。「とてもチャーミングですよ。スナフキンかと思いました」わたしもおもわず声が弾んだ。
ほんの5-6分もたたない立ち話だった。互いに名乗ることもなく住所も告げず、軽い足取りの後ろ姿が春の陽気の中にふわっと消えていった

次の春も間違いなくやってきた。庭にはまたこぼれたタネが芽吹き、青いじゅうたんが敷き詰められた。
名もない無数の種が、わたしの頬を撫でるか撫でないかの距離で、ふわふわとそよ風の中に遊泳している。わたしはそんな中でただ一人、ぼんやりとスナフキンの居た空席に目をやっていた。
目の前のケヤキの上空に広がるこんもりした茂みの中から、秋でもないのに落ち葉のようなものがかさかさと音がして足元に舞い降りた。やっと歩き始めたスズメの赤ちゃんだった。必至で溝の下へ意外な速さでもぐりこんで逃げていった。そのあと、我が家の老猫のシロが、サッシの戸を爪で開けて外にのっそり姿を現した。ケヤキの中の親兄弟のスズメたちが突然木が揺れるほどのパニックの大騒ぎを始めた。シロが木の下にくると最高潮に達した。シロは陽気に誘われてうろうろしている。もう20才を数年前にすぎている老描は、保護された時は冬の造成地に捨てられた喘息で下痢をしている1歳児であった。野良時代の外の空気の記憶を懐かしむように顔を上にむけ、目を細め、クンクンと匂いを嗅いでいる。
シロももう人の年にしてみれば100才を越えているのかもしれない。先日も蓋が開いたままになっていることを確認せずにバスタブの蓋に飛び上がろうとして、そのままおぼれ死にそうになった。簡単な段差のジャンプにも失敗してずるずる落ちることが多いこの頃だ。しかし、失敗を嗤われることほど、かれのプライドを傷つけることはないらしく、なにごともなかった風を装って姿勢を正し、その場を後にする姿には恐れ入る。10年くらい前までは、蛇の鎌首を咥え、その残りを首にぐるぐる巻き付けて見せに帰ってきたり、幼鳥、トカゲなどをバラして遊んでいた。いまはハンター根性がなくなった。一回りしてあちこちにおしっこをひっかけ、一番安心な室内の寝床にさっさと戻っていった。それを見届けた頭上のスズメ軍団の大騒ぎも、まるで指揮者がいるようにパタッと静まり、いつのまにか幼鳥も溝からどこかに避難していったようだ。親元に帰れればいいが、いつの春にもよくある庭のできごとである。
でもその日の午後は何か忘れ物をしたような空気が私のどこかに残っていた。

部屋に引き上げようとしたとき、郵便箱の中の誰かが入れたリボンで結んだ和紙の包に気がついた。差出人の名前がない。開けると手作りだとすぐわかる、ていねいに縫い上げられた萌黄色の三角帽子とすっぽりかぶれる簡単な仕立ての三角コートが現れた。あの方だ・・・。とっさの直感でわかった。さっそくそれを身に着けてみた。着心地のいい肌触りにわたしはうっとりした。
スナフキンは年齢不詳の妖精だった。もしかしたら人も歳をとれば、おじいさんとおばあさんが、老人と幼児が、互いの境い目があいまいになり、それが溶けあった先は妖精に近づくのではなかろうか? クスクスと泡のような笑いが頬ににじみでる。
スナフキンのことはもう仕方がない。でも諦めることができても忘れることはできない。ぽかぽか陽気の中で半分まどろみながらわたしはその三角ロープと帽子を改めて肌に感じる。
しゃがみこんで黒い土のなかに素手をいれる。ほかほかでいて懐かしいひんやりした野生の命が指によみがえる。
タンポポの綿毛が風に乗って空中を舞っている。わたしの頬を撫でるか撫でないかの距離で、ふわふわとそよ風の中に遊泳している。むせかえるような種の遊泳に息が苦しい。もし心というタネが存在するとしたら、腐った負の感情ではなくて、幸せをはらんだタネを、どこか心を痛めている人の中に舞い降りて根付いてほしい。たわいないそんなことを思う。
増えた忘れなぐさの苗を指にからませてゆっくり引き抜く。それぞれを湿らせた新聞紙にくるみ、持って帰りやすいようにビニール袋に包んだ。ネームプレートもつけた。ご自由にいくつでもお持ち帰りくださいと電柱に張り紙をする。ひさしぶりに土と数時間戯れた。どんな人にもらわれていくのだろうか。春の午後のひとときが静かにすぎていく。

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「港町神戸」じわりと地盤沈下 古谷さんからのお便りです。

皆さん
 古谷です
 
購読中の月刊誌に載った掲題の記事を添付別紙でお送りします。
ご一読下さい。

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主催者の和田さんが神戸出身だからの所為ばかりでないと思いますが
W50年」には結構神戸出身者が多い印象を受けます。斯く申す私も
高校三年生まで神戸市須磨区に住んでいました。
 
その神戸出身者にとって、誠に腹立たしいのが、添付資料の内容です。
大都市で人口が減っているのは神戸市だけで、その順位は川崎市にも
抜かれ、第七位に転落しそうだとの事。
 
その理由が、「阪急と地下鉄の相互乗り入れ」案、「関西国際空港誘
致」案、に市議会が反対したので、アクセスが悪くなったためと言い
ます。反対した市議員の頭を金づちで叩きたい思いです。

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私が餓鬼の頃は、神戸電鉄が湊川、山陽電鉄が兵庫、阪急が三宮、阪
神が元町までと、市内に私鉄が四社も乗り入れながら、長い間相互乗
り入れが出来なかったのが、目出度く下記の如く繋がりました。

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処が、下記の地下鉄の路線図を見ると海岸線が私鉄と繋がりそうな感じ
がしますが、無理なんでしょうかネ。

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≪和田さ~ん 古谷さ~ん へ 追伸≫ しゅくこさんのお便りです。

和田さ~ん、古谷さ~ん
                しゅくこです
 
今日は近くの公園で自治会のどんど焼きという恒例行事がありました。無病息災を祈って、1/15日の小正月に松飾り、しめ縄などを燃やす火祭りです。
ほとんどは庭の剪定した小枝があちこちから集められ、その焚火で焼いた、ほかほかの焼き芋が人気です。
その灰が大きく掘られた地面に埋められてこのイベントがおわりです。

わたしは居間の陽だまりのなかで配られた熱々のヤッキイモ―をほおばりながら、1.2.3の全編を読ませていただきました。
 
今読んでもなかなか楽しい書き込みでむおもわず笑ってしまいますね。
和田さんの、こうした緻密で丁寧な記録を残しておられる作業に心から感謝です。muito obrigada

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