私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

タグ:愛媛県

新四国曼荼羅霊場第50番護国山高昌寺を訪問しました。

今回四国訪問は、昨年5月28日に始めた四国霊場八十八ヶ所納経帳には高知県の第三一番札所竹林寺しかお参りしていないので一つでも二つでもお参り出来ればとの目的でしたが、恵子が納経帳をブラジルに置いて来たためにまた新しいのを購入するのもと思い今回は霊場お参りは諦めました。
10月にブラジル開山55周年記念祭に来られた吉田ふく子さんの御主人の吉田道彦さんの弟さんが住職をしておられる札所第50番を訪問しました。これは新四国曼荼羅霊場の第50番の護国山高昌寺でした。納経帳があれば購入したかったのですが、ないとの事で住職と奥様、ご子息にご挨拶お話を伺わせて頂きました。高昌寺は、「おねはんさんのこうしょうじ」として有名でミニ永平寺といわれ楠の木を要所に使用しているため伊予の楠寺とも呼ばれているそうです。松山市の郊外の内子にあり200年以上の歴史を持つねはん祭り関連して平成10年11月に石造では日本一の涅槃像(長さ10メートル、重さ200トン)が迎えられ穏やかなお顔に癒される。その大きさに驚くとともに住職の苦労話に胸を打たれた。
住職さんは、先代の養子に入り嫁を貰い寺を継いだそうですが、現在はご子息が寺を継ぐとの事で安心しておられました。仙台の吉田俊英和尚からの連絡が一日先になっていたとの事で何の準備もしていなかったとの事でしたが色々お話を聞かせて貰い有意義でした。
と云うことで今回は、四国は、高昌寺だけになりました。
関係写真を貼り付けて置きます。

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護国山 高昌寺の写真他 四国編 その-1 賀多井さんからのお便りです。

岡山の賀多井です。
 
11.22 08:30に岡山を出発、山陽道を西進、しまなみ海道をひた走り、今治から伊予の内子町に向かいました。
四国曼荼羅霊場第五十番の 護国山 高昌寺を訪ねました。
 
540年の歴史のある、立派なお寺でした。 境内の落ち葉を掃いておられたご婦人に、『ご朱印張の受付は何処ですか?』と
お尋ねしたら、何と何と、ご住職の奥さんでした。
部屋に通されて、色々と普段では聞けないような貴重なお話を効かせて貰いました。 四国八十八か所の霊場とは別の、
四国曼荼羅霊場である事、涅槃像の建立の経緯は苦労話などなど。
ご住職の奥さんと話しておりましたら、ご住職も話しの輪にお入りになったところ、私の育った高梁市の延命寺の住職の
お名前を言われましたので、その片はよく存じていますと言う事で、世間は狭いし、人と人の縁は不思議なものと深く感じました。
 
内子の『道の駅』で、『もち麦うどん』を初めて戴きました。とても美味しく、讃岐うどんとは、また違った美味なものでした。
 
そのあと、松山道を東進、日没が迫り、栗林公園や他の霊場は閉まるのではと、徳永さんの提案で、与島のSAに行き、
夕陽を見ましょうと言う事になり、そこで瀬戸大橋の雄姿見る事が出来ました。
 
あと、和田さんご夫妻を高松駅にお送りして、私は徳永さんの運転で、自宅近くまで送って戴きました。
500km 超の運転を、徳永さんにお任せして、楽をして、文字通便乗して、四国の秋を楽しませて貰いました。
改めて、徳永さん、豪華な食事に与り、その他色々とお心遣い、ありがとうございました。お疲れさまでした。
 
四国編の写真も2回に分けて送ります。
                                    以上

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≪岡山、愛媛、香川の旅写真≫ 徳永さんからのお便りです。(その2)

徳永さん
昨日は、大変億疲れ様でした。お仕事で鹿児島、仙台迄車で出掛けられるとは云え岡山から尾道―今治のしまなみ海道経由松山、内子。愛媛県から香川県迄瀬戸内海を走り瀬戸大橋の夕日を眺めるスポット与島での夕暮れ時を過ごした後、高松までの送って頂きまた岡山から和気迄優に500㎞以上の運転、本当に御苦労様でした。旅の途中で撮った紅葉の岡山、愛媛、香川の写真有難うございます。2度に分けてBLOGに掲載させて頂きます。
私の写真整理も出来ておらず昨夜は、9時半には、恵子に付き合って寝てしまいました。
訪日旅行は、最終週に入り金曜日には、帰国します。来年のリオオリンピックにはリオの街を3000匹のこいのぼりでマラソン選手を応援されるとの事で來伯されることになっていますが、長旅でブラジル行きを躊躇されておられる奥様も上手く引っ張り出しお二人での來伯をお待ちしています。
写真の残り8枚を下記BLOGに掲載して置きます。

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サンパウロ新聞福岡支局長の吉永 拓哉貴社から年賀状を頂いた。その吉永記者が今年初めての日本からの面白い記事をサンパウロ新聞に掲載している。お借りして皆さんにも紹介して置きたい。


年明け早々日本に大地震?サンパウロ新聞WEB版より

 災害防止祈願に訪日 心霊治療・弘田さんが日本治療行脚

 聖州アチバイア市で念力による心霊治療を行なっている弘田亞聖(ひろたまさつぐ)さんは、現在、治療行脚のため日本を訪問中。昨年十二月二十六日、同氏は香川県坂出にある自宅から本紙福岡支局に連絡を寄こした。その内容とは、「年明け早々に日本国内で大地震が発生すると天からのお告げがあった」とのこと。その地震災害を食い止めるべく、元日に天照大神に祈願するため、取材に来てほしいと頼まれた。記者は昨年ブラジルで、弘田さんの心霊治療を受けた経験がある(本紙〇八年八月十二日から十六日まで『弘田心霊ゾーン不可思議体験記』を連載)。また不思議な話が聞けるのではないかと期待をしながら、取材を引き受けた。(吉永拓哉福岡支局長)

 心霊の神さま推薦『讃岐うどん』

 記者は昨年十一月末に日本へ帰国し、今は福岡市にある本紙福岡支局で勤務している。三十一日の早朝六時半に自動車で香川県へと出掛けた。

 福岡市から弘田さんの自宅がある香川県までは約五百キロの道のりだ。雪がぱらつく首都高速道路を走り、関門海峡を渡り、山口、広島、岡山県を経て瀬戸大橋を通過したのは午後一時頃だった。

 同氏の自宅は瀬戸大橋から程近い飯野山(讃岐富士とも呼ばれる)の麓にある。

 だが、方向音痴の記者はどうしても自宅が捜し出せず、仕方なく弘田さんの携帯電話に連絡を入れ、付近の団地脇の道路まで出てきてもらうように頼んだ。

 その直後、坂道を降りてくる弘田さんの姿が目に入った。

 ビン底メガネを掛けて額には白い鉢巻を巻き、白いジャンパーを羽織り、白のズボンをはいている。まるでアチバイアの診療所から抜け出して来たようなコスチュームで現れたので驚いた。

 同氏が「三年前に建てた」という二階建ての邸宅に通されるが、家にいた夫人に挨拶する間もなく、「せっかく香川まで来たんだから、本場の讃岐うどんを食べさせてやろう」と近所のうどん屋へと連れ出された。

 店内へ入ると、客の目が一斉に弘田さんに向けられる。白い鉢巻を巻いたままテーブル席に腰掛けたからだ。

 女性店員も珍しそうな顔で注文を取りにきたが、弘田さん本人は気にならないといった様子で天ぷらうどんを注文し、美味そうに麺を啜っていた。

 帰宅後、リビングにあるソファーに腰掛けると、弘田さんが最近アチバイアの診療所で写したという、不思議な光を放つ写真を持ってきた。その枚数とくれば、三千枚はあった。

 写真には、釈迦やキリストの背後に現れるような七色の後光が写し出され、また、UFO(未確認非行物体)の写真などもあった。

 記者の立場上、これらの写真が本物であるとは断言できない。しかし、不思議な写真の数々をパソコンで一枚いちまい偽造するには、途方もない時間を要するのは確かである。

 そうしているうちに〇八年大晦日もいよいよ更けていった。

 大地震はなかったが大雪が・br>
 弘田さんは高知県高岡郡宇佐町で生まれ、十四歳の頃に一家でドミニカへ移住。その後、国内がクーデターで混乱したため、六三年にブラジルへ再移住している。

 当初はアチバイアで農業を営んでいたが、徐々に霊能力が開花し、念力で人々を治癒するため同地に診療所を開設した。

 現在は、同氏の兄妹や妻子のほぼ全員が日本へと引き揚げ、アチバイアの自宅兼診療所には弘田さんと弟子の数人が暮らしているのみだ。

 「毎年、在日ブラジル人たちから呼ばれて日本へ治療行脚にくる」という弘田さん。今回は妻子とともに年を越すため、十二月二十六日に香川入りした。今後、一月から三月まで日本全国で治療行脚をするという。

 「蟻は一次元の世界しか知らない。真っ直ぐしか物を見ることができんのだよ。そこで三次元の世界にいる人間が、蟻の餌を上から取り上げたらどうなる。蟻は、目の前にあった食べ物が突然なくなったと思って不思議がるじゃろ。人間とて同じこと、高次元にいる神や宇宙人から見れば、欲ばかり追い求める人間界は愚かなものよ」

 弘田さんが突然、このような前置きで日本の深刻な経済不況について語りはじめた。

 「経済不況から抜け出すには、国民の欲を三割捨てればいい。不満ばかりで、欲に走る心が陰のエネルギーとなり、日本列島に大地震をもたらす」

 天界からのお告げでは、近日中に日本国内で大規模な地震が発生し、死者は数万から数十万人単位に上るのだとか。そのため、元日を迎えれば、自宅にある神棚に向かい、地震を起こさせないため天界に祈願するとのことだった。

 その後、リビングにあるテレビを付け、紅白歌合戦を見る。しばらくすると、歌手の宮沢和史氏が登場して移民百周年記念歌『足跡のない道』を歌いはじめたが、リビングにいたはずの弘田さんの姿が見当たらない。

 同記念歌を聞かせようと慌てて同氏を捜すと、なんと隣の座敷で大の字になり寝ていたのだった。弘田さんはどうやら、コロニアに関心がないようである。

 紅白を見終わった記者は時間を持て余し、そのままリビングで寝てしまったが、年が明けて午前一時半頃、弘田さんから「そんなところで寝ておったら風邪をひくぞ」と揺さぶり起こされた。

 大阪地震を回避するための祈願はいつするのかと訊ねたところ、「記者さんが寝ている間に済ませたよ」と笑いながら話す。

 一体、香川県まで何をしに来たのかわからなくなり、そのまま座敷に敷かれた布団へ移った。

 翌朝、弘田邸には同氏の弟や妹とその家族が集まった。弘田さんの甥は、左足の側面に大きなタコができており、それが痛むと訴える。弘田さんが「ちょっと見せてみなさい」と甥の足をつかみ、念力を入れると、不思議と痛みが和らいだ。

 「おじちゃん、すごい!」と甥は大喜びし、白い鉢巻を巻いた弘田さんの顔をまじまじと見つめていた。

 弘田一家は、さすがブラジル暮らしを経験していただけあり、昼食は本格的なシュラスコで賑わった。こうして年越しを弘田邸で過ごした記者は、「また、いつでも来なさい」と弘田さんから玄関まで見送られ、元日の夕刻に福岡市へ戻る。

 しかし、夜になると、チラつく雪が吹雪きはじめ、ついには凍結のため高速道路の広島=福岡間が通行止めとなってしまった。

 記者は夜間走行を諦め、仕方なく広島市内で夜明けを待つ。こんな時、目の前の大雪を弘田さんの念力ですべて溶かすことはできまいかと思いながら。

 2009年1月7日付

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飯島秀昭氏四国88か所 《歩いたお遍路1300キロ》 サンパウロ新聞WEB版より

http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1207


飯島 秀明さんは、ブラジル盛和塾のメンバーでブラジル掃除の会会長、よさこいソーラン普及会前会長、ブラジル美容界最大のチェーン店SOHO(蒼鵬)の社長職を9月にご子息に譲り4国88箇所のお遍路にでる。総行程1300キロを34日で踏破したとの事。羨ましい健脚である。現在57歳、3年間を充電の時として60歳から又新たな挑戦を始めるとのことで「生きているのではなく生かされている」お遍路悟った人生哲学に稲盛イズムをバックに彼が何を始めるかが今後の楽しみでもある。まだまだブラジル日系社会でも目の外せない御仁の今後に期待したい。
写真は、サンパウロ新聞WEB版に出ていたお遍路姿の飯島さんです。何とさわやかな顔をしているではないですか。時間があれば歩いて見たいお遍路です。

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