私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

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≪サンパウロの松です≫ ジアデーマの松村さんからのお便りです。

村さん はなさん しゅくこさん 丸木さん 和田さん、
 
19669月サンパウロ州イビウナ郡の前田農場に配耕された翌日、コチア青年の先輩に連れられてご近所の挨拶周りをしました。
先輩の運転するトラクタ-Massay fergusonの後輪の軸の上に乗って、馬の様に跳ねながらスリル満点のご近所周りでした。3キロ先のお隣さんのパトロンは村松さん。出身は岩手県。ブラジルにきて初めて村松姓に会いました。私のふるさと鹿児島や隣の熊本、福岡には松村姓が多いですので、東は村松姓、西は松村姓なのだなとひとり合点した次第です。
サンパウロの仕事先や友達の間では"マッチャン”と呼ばれています。サンパウロ生まれの家内からは”マツ”、グズグズしていると”マツー”と呼ばれます。
 
北米カリフォルニアの村さん 南米サンパウロの松さんに私も賛成です。といっても私の出番はほとんどありませんが。
私のことをカリフォルニアで活躍されている村松さんと呼んで下さったはなさんしゅくこさんに心では感謝!しています。
 
ニッケイ新聞に村さんの写真が載って皆さんご存知ですね。そこで松さんの写ったブラジルらしい写真を見つけました。2012年、鹿児島大学の学長ご一行にくっついてブラジル内陸中央部のゴヤス州のコ-ヒ-園を視察。時期は8月でコ-ヒ-豆の収穫は4月で終わっていたのですが、特別、大型の収穫機による収穫を実演して貰いました。ブラジルではJact社の大型収穫機が有名ですがここでは別の会社製を使っていました。セラ-ド地帯という不毛の地を農耕可能な土地にしたのはコチア組合など日系農家や日本政府の努力が大でした。この農園も元は日系農家だったそうです。もうひと踏ん張りだったのでしょうが退耕されて残念です。キバレ
 
サンパウロ 松 拝

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ゴヤス州農園コーヒー豆収穫期の前で。。。


≪ARUJA Golf Club USATOURの報告 最終回≫ 村松さんからのお便りです。

和田さん、
 611日、Sao Paulo空港を出発したArujaGolf Club会員のアメリカ旅行は今年で第10回目を迎えた。
 思えばSao Paulo在住の二世であるNelson 斉藤夫婦との長年の友人関係から生まれた旅行企画である、“Arujaの会員仲間にアメリカの国を見せてあげたい”との彼からの願いで始まった旅行であった。第1回は6組の夫婦から始まり、帰国後にクラブ会員に旅行内容が伝わり次第に人数が増えて言った、企画案内の私にとっては一人でも多くのBrazil仲間がアメリカを知って頂ければ嬉しいとの願いもあり、5回目から増加する人数に対処しゴルフと観光を半々として旅行先を変えて2週間の旅に変化していった。

 5回目から旅行日程も6月とする事で全米全土の何処でも旅行企画することが出来た、そして15人乗りの大型Van2台と荷物専用Van1台を使う事でより充実した旅が出来るようになり、運転もアメリカ滞在経験を持つ3名でキャラバン旅行となリ、24時間をフルに使っての旅となり宿泊も町の郊外のInnMotelにする事で、部屋への出入りも簡素化され同時に料金面でも格安となり、食事も旅先で自由に停車し好みに合わせた食事が出来、旅の内容も時間を駆使してより多くを見学できることができた。

 今回の第10回はUtahSalt Lake City 集合から始まる2週間の旅を企画した。
 1日目GRU空港をUNITED航空で出発。
 2日目Houston空港到着、乗り換えてSalt Lake City 空港到着、我々夫婦の出迎えで空港を3台のVanで出発し、近くのホテルへチェックインし休憩した後、ゴルフのデスカウント大型店舗で様々なゴルフ関係道具を購入する、Brazilに比べて格安との事で皆さん大きな買い物に精出していた。

 この町は1847Mormon教徒によって作られた町である、1830New York J Smith氏によって起教、その後多くの迫害を受け1846年キリストの伝言により西部への大移動を始めMissouriMississippiの大きな川越え、インデアンとの戦いそしてRocky山脈越え等の幾多の困難と犠牲を出し、SaltLake Cityへ辿り着く、そこはキリストの生まれた塩海のイスラエルと類似した地であり此処に教団は定住し本山を建設した。

 3日目:午前中第1回のゴルフ大会を開催を町が一望できるRocky 山脈の中腹でプレイすることが出来た、午後はUtah州の歴史博物館を訪問しUtah州の歴史と各種展示をみて如何にこの州が鉱物資源、石油、天然ガスに恵まれたかを理解した、Mormon教会本山の訪問をしモルモン教徒の歴史を知ることが出来、夕食はアジアン・バフェーで満足しホテルへ帰還。
 4日目Salt Lake Cityを後にしてIdaho州に入り、Idaho Fallsで昼食その後町の中心を流れる川の「Idaho Falls自然ダム」を見学、またこの町のシンボルとなっている「Eagle Rock Fountain」を見学しYellowstone 国立公園の西の入り口の町に到着し2泊する、長い走行となった一日であった。

 5日目:今日は「Yellowstone 国立公園」をくまなく散策する、早朝の出発であったが途中の道路をバッファロー(野牛)の群れが横断し30分足止めされる、この公園は野生動物が人間より大切にされている、「OldFaithful」の1時間毎に噴出す熱水を見学、マグマによって温められ湧き上がる溜池、そして待望のバッファローの群れがあちこちで見られ、またBlack Bear親子も車窓から見つける事ができた。夏休みとあって見学路はどちらを向いても観光客で賑わっていた、国内の家族連れ、欧州系、インド・アジア系、そして最も集団でガイドの旗に付いて大声を出して歩いている中国系が目に付く。

 6日目Yellowstone から隣町Codyに移動、午前中公園内の北半分を廻り山岳地帯の公園で硫黄の山、噴出す蒸気の山、滝等を見学し、午後Codyの町に入り「Buffalo Bill歴史博物館」を見学、1860-90年台の活躍した西部の町の面影が博物館で知ることが出来た、特に印象に残った展示はライフル銃とピストルの移り変わりの展示であった、よくこれだけ集めたものだと感心した。夕食はBBQのレストランでCountry Westernを聞きながらステーキに挑戦した。
 7日目:午前中町の郊外の唯一の「Olive Glenn CC」プライベート・ゴルフ場でプレイできた、平坦なコースであったが距離が長く皆さん苦労していた、このゴルフ場から戦中日系人が収容されていた「Heart Mountain」が直ぐ近くに見えた。午後Buffalo への移動中にこの強制収容所を訪問した、194112月真珠湾攻撃によって太平洋戦争開始後、ルーズベルト大統領は9066号を発令し西海岸に在住する日系人を敵性外国民とみなし、西海岸から400km内陸に10箇所の収容所を建設し14万人を強制収容した、此処「Heart Mountain強制収容所」は極寒の冬の地であり12,000人を収容した。此処から米国市民権を持った二世達は「Im American」と訴え米国陸軍に志願した、一部は442歩合で欧州戦線にそして一部は太平洋南方戦線に向かい大きな犠牲を払いながら功績を挙げた(山崎豊子著、「二つの祖国」参照)。施設には映像と写真集や参戦した陸軍二世の活躍が展示されており、惜しくも収容所内で亡くなられた碑に皆で目礼し、Buffaloの町に向かった、夕食は町一番のステーキ店で珍しい野牛のステーキを頂いたが柔らかく脂肪のない赤肉であった。

 8日目:午前中「BuffaloGC」にて3回目のゴルフ大会を開いた、激しい上下の傾斜のコースでラフは長い草で覆われ難しいコースであった、それでも70台で回るシニアーには驚いた、殆どの皆さんは90台少々で他は100台で残念なプレイであった。Buffaloの町は名前の通りバッファロー(野牛)の生息する自然であったが西部開拓が始まり大陸横断鉄道が敷かれ東部からバッファロー・ハンターが大挙してやってきて殺傷したお陰で激減していった歴史がある、土地のインデアンは必要なだけ殺傷し総てを利用したが、欧州からの移民への土地のインデアンとの戦い長い間続きインデアンも激減していった哀れな物語がある。現在は連邦政府による自然保護区が設けられ生息数も増加している。Rapid CityのあるSouth Dakota 州に入る手前で「Devils Tower国立公園」がありそこを訪ねた、なだらかな丘の真ん中に突如現れた岩の塊、火山活動でマグマが冷えて固まり長年の侵食でこの岩の塊だけがが残ったと言われる、麓から300m昇りそこから岩の高さは約100mの見事な存在感を示していた。その後宿泊はWyoming州とSouth Dakota州の州境の町Rapid Cityであり、此処はYellowstone より更に観光客で賑わい各種の店舗や食事どころも繁盛していた。

 9日目:忙しい一日になる、最初の訪問は「WindCave国立公園」である、アメリカで3番目に大きな鍾乳洞であり世界では7番目と言われている、地下30mまでエレベーターで降り、鍾乳洞内部の300mくらいを歩いて見学する、延長は2,000mになるがシニアーは此処までが限度である、この鍾乳洞の鍾乳石は珍しい形で他の鍾乳洞と異なっていた、風邪の洞窟と言われるように地下空間でも風が吹いていた。次の訪問は「Crazy Horse国立記念碑」を見学、70年前から始まった地区を支配していたインデアン種族の酋長の顔を岩に掘った石碑、完成までにはまだ70年を要すると言われる、すでに見事なインデアンの顔がくっきりと現れており下から拝める事が出来インデアン酋長記念碑に乾杯した。その隣には待望の「Mt. Rushmore国立記念碑」がある、此処は観光客で最も賑わっていた、星条旗が並ぶ通路を上がっていくと、突き当たりの山の花崗岩に歴代大統領4人の肖像がくっきりと彫られていた、GeorgeWashington, Thomas Jefferson,  Theodore Roosevelt, Abraham Lincoln である、1927年から1941年に掛けて完成。その後「ChuckwagonSuper Show」の夕食と音楽演奏を聴く、聴衆は300人程あり我々は真ん中前方の特別席、今年の2付き予約した時すでに50席が開いており助かった。BBQの食事の後、ショーはやはり西部らしいCountry Western音楽である、客の殆どはシニアーばかりで演奏と劇も交えた楽しい時間であった、ElvisPresleyの偽者が突然我々のテーブルに上がって謳ってくれて大喝采を浴びた。

 10日目Rapid City を後にして草原の中をひたすら4時間の走行、途中バッファローや鹿が見られた、Casperと言う町で昼食(Fast Foodは旅をしている時には便利な店である、広い駐車場、各種のメニュー選択、美味しい、清潔、早い、安い、トイレ使用と便利で有り難い)。昼食後「Three Crown GC」での4回目のトーナメントである、Wyoming 州内では最も有名なパブリックである、素晴らしいコースだが強風の吹き荒れる中でのプレイに皆さん困惑した、上がってみれば70台、80台は誰もいない90台が数名で大半は100台、素晴らしいコースが泣いていた、終ってクラブ内のコースが一望できるレストランで「Prime RibBuffet」を貸切でやってくれた、ワインで乾杯の一日であった。

 11日目Casperの町を出発しRocky山脈の中を走り、6時間かかってPark Cityにある「Tanger Outlet Center」での買い物をした、Outlet はこのアメリカが発祥の地、製造メーカーの直売店であり在庫の整理のために街中のデパートと同一商品を半額以下で販売する店舗集合センターである、Brazilian にとってはブランド品が格安とあり買った買ったの山となり、荷物専用のVanが一杯となってしまった。その後SaltLake Cityに帰ってきてホテルに到着したが、旅の疲れで皆んな早くベッドインのようであった。

 12日目:午前は「Mountain Del GC」のLake コースで5回目のトーナメント、山岳コースで狭いフェアウェイここでも苦労した、途中空が曇り気がつけば雹の塊が落ちてきた、Rocky山脈の天気はあっと言う間に変わるそうである、山頂は万年雪に覆われ4m級の山々が繫がっている。午後はSalt Lake(塩湖)に出かけ塩の固まった上を散策した、白い結晶を口にすると確かに塩であった。町の東はRocky山脈で西にはSierra Nevada山脈がありる、太古の昔海からこの山脈が隆起して出来、この間にUtah州とNevada 州は海水の大きな湖で覆われていた、長期間の乾燥で海水が蒸発し現在の塩湖までに小さくなったと言われる、塩分濃度は大きくウェットスーツ着用で浮かんでいられるほどである、現在も蒸発が繰り替えされこの残された湖も将来次第に消滅すると言われる。夕食は「Golden Corral Buffet」と言う人気のあるアメリカ式レストランで堪能した。
 12日目:今日は旅行最終日となる、午前中6回目のゴルフトーナメント開催、昨日と同じゴルフ場だが今日はCanyon コースである、昨日より更に狭い山岳コースに挑戦である、2,300mの標高であるためドライバーが飛びすぎる、200ヤードのシニアーが250ヤード飛ばして慶んでいる、最終ゴルフで緊張してプレイしたお陰か皆良い成績だった、夕食後の成績発表が待ち遠しい。午後は最後の買い物に町の中心街にあるShopping Mallに出かけた、Appleのスマホ-107oo-800㌦で購入でき、持参したスマホの入力を総て転送までやってくれる、そして200㌦で下請けしてくれるという嬉しい買い物が出来たと慶んでいた。またブランド品のお土産を買って皆さん満足した最終のショッピングができたようである。夕食もBuffetで済ませホテルに帰還して最終ミーテングを開いた。ゴルフの成績は発表では男女共に4位まで賞金が出た、また私からは趣味の木工で造ったボールを記念品として渡すことができた。反省会では皆さん大いに盛り上がり一人づつコメントを発表してくれ感謝された、また来年もよろしくとお願いされた、了解したのは良いが今年78歳の小生にとっては後2回で終了したいとお願いした。
 13日目:ホテルでの朝食をとり10時までゆっくりと休憩し、総ての荷物の23kg重量制限を確認しVan に積み込んだ、到着時に比べ皆さん一個のトランクが増えている、勿論買い物で中身は一杯である、午後の出発の為昼食も空港で早めにとり総ての荷物がUnited 航空窓口でパス、そして別れを惜しみながら皆さんをゲートまでお連れしお別れする。UNITED航空でChicago経由で14日目GRU空港へ到着の予定である。
 終わりに、25名の皆さんが2週間無事に旅が出来た事に安堵している、そして昨晩の反省会で全員から楽しく有意義な旅が出来た事を感謝され嬉しく思っている、4,500kmの長距離を完走した2名のドライバーには、間違いなく後続を走ってくれ毎年の事ながら感謝している。
 
これまでの旅行地は:

 1:カリフォルニア州San Francisco集合、2:西南部 California州とArizona 州でLos Angeles 集合、3Canada国はOntario州とAlberta 州とBritish Colombia州でToronto集合、4:東南部Florida州でOrlando集合、5:中東部のSouth Carolina州でMyrtleBeach 集合、6Califorunia州とNevada 州でLas Vegas集合、第7回:西北地区でWashington州とOregon州でSeattle集合、第8回:中西部Colorado州とUtah州でDenver集合、第9回:東北部Massachusetts州とRhode Island州でBoston集合、そして今回、第10Utah州とIdaho Montana州とWyoming州とSouth Dakota州でSalt Lake City集合となった、来年度は中南部Texas州でHouston集合で、NASA宇宙センターやSan Antonio のアラモの砦やRiverWalk等を予定している、今この投稿をしながら既に来年の企画が頭に浮かんでいる。     村松義夫、在California, U.S.A.


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≪Aruja GC USA 旅行 # 4≫ 村松さんからのお便りです。

和田さん
 
  6 日目Codyの街のプライベートゴルフ場で2回目のゴルフを楽しんだ、平坦なコースでしたがさすがプライベートで綺麗に手入れされていた、半年間雪に埋もれる地域のためグリーンはカリフォルニアの砂漠地帯とは比べ物にならない素晴らしさだ。
 
  午後Buffaloへ向かう途中ゴルフ場から見えたHeat Mountainの日系人強制収用所を訪ねた、簡素ではあるがバラックの収容時の様相を呈した建物で白人のシニアー女史と4世のジョン君が対応してくれ30分の映像を拝見した、1941年のパールハーバーへの奇襲攻撃から始まる太平洋戦争勃発。
 
  そして翌年春西海岸から400km内に居住する日系人12万人(WashingtonOregonCalifornia州に在住の日系1世、2世、3)は敵勢外国人としてルーズベルトの特別大統領令発動でミシシッピ川までの10箇所の地域内に投監された。
 
  ここWyomingには2箇所の収容所がつくられ、ここHeart Mt. Relocation には14,000人が収容され、極寒の地で特に子供達や1世の高齢者には厳しい収容所だったとのことである。
 
  南米のチリー、ペルー、コロンビア等の西海岸居住の日系人たちもアーカンサス州内の収容所に送られたと聞く、Arujaのメンバーの中の親達もサンパウロ地区から内陸に強制立退きさせられたと言っていた。収容所で亡くなった人々の墓碑に黙祷した。そしてBuffaloへ向かった。村松

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Heat Mountain 収容所の写真です。




≪ドミニカ共和国プンタカナ=アニバーサリー旅行の最後の晩餐≫ 丸木さんからのお便りです。

丸木で~
アニバーサリー旅行の最後の晩餐はリゾート内ブラジル料理店アル レシーフェでロディジオのシュラスコ満腹。5年後の金婚式旅行にも又来たくなるぐらい超一流エンターテイメントで至れり尽くせりのカリブ海のプンタカナでした。

サウジアラビアの東海岸アルコバールには韓国料理店の又来屋レストランがありますが、又来てや言われても行きたくない店ですわ。日本の石油タンカーが攻撃され炎上してる辺りです。

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≪45周年目の結婚記念ディナー≫ 丸木さんからのお便りです。


丸木で~
                              和田さん
 
プンタカナのリゾートホテル バイア プリンシペ アクアマリーン内ニッケイで45周年目の結婚記念ディナー

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ドミニカの和食

これが日本料理とは思われん様な、けったいな料理でした。

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