私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

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令和元年=23個人・団体に外務大臣表彰=日本語教師、ABRAC会長ら=「多くの人の協力あってこそ」 ニッケイ新聞WEB版より

 令和元年、2019年度の外務大臣表彰受賞者の23個人・団体が発表された。受賞した山下治さん(83、福井県)は「長年移住地で頑張ってきて、少しは役立てたと思うが表彰される資格なんてない」と謙虚に喜びを述べつつ「今は下の世代に任せている。次世代はより活気のある地域を作ってほしい」と今後への期待も見せた。ラウラ・ミツコ・オモト氏(76、二世)も、「昔は、日本語は家で親から教わるものだった。教師として生徒に日本語を初めて教える時は大変だった。家に幼い娘達だけで夜遅くまで残し、迷惑もかけた。娘を含め多くの人の協力があってここまで来られた。私だけが何かを成したわけではない。受賞は身に余る名誉」と謙遜した。
 受賞者は以下の通り。
【在ブラジル日本国大使館管内】▼カルロス・マグノ・カンポス・ダ・ホーシャ氏(ブラジル農牧研究公社・元総裁)。
【在クリチバ日本国総領事館管内】▼エウザミ・ミワ・オナカ氏(剣道師範)▼ラウラ・ミツコ・オモト氏(クリチバ日伯文化援護協会日本語講座校長)▼サチオ・カユカワ氏(アプカラナ文化体育協会評議委員長)▼セイコ・ヤマナカ・ササヤ氏(クリチバ日伯文化援護協会日本語講座教師)▼三都主アレサンドロ氏(02年、06年W杯で日本代表選手として活躍。帰伯後はサッカーを通じて青少年指導)▼エリザベッチ・アケミ・ウエタ・ニシモリ氏(ブラジル歌謡協会会長)▼テイシュン・ヒラマツ氏(ブラジル出稼ぎ協会会長)中平眞理子氏(歌手、04年から国内各地で慈善コンサート開催、東京都葛飾区在住)。
【在聖日本国総領事館管内】▼呉屋新城春美氏(ブラジル日本文化福祉協会・前会長)▼南利実氏(サンパウロ日伯援護協会日伯友好病院・元院長)▼日下野良武氏(ブラジル日本語センター理事長)▼山下治氏(コロニアピニャール文化体育協会・元会長)▼マウリリオ・ビアジ・フィーリョ氏(マウビザグループ社長、聖州)
【在マナウス日本国総領事館管内】▼武田紀子氏(駐在員夫人や女性移住者によるマナウス婦人会「結の会」会長、アマゾナス州)▼ロライマ日伯協会(日本語・文化普及、会員相互交流、困窮邦人の保護・支援、ロライマ州)▼ロンドニア日伯文化協会(日本語・文化教育の普及、ロンドニア州)
【在リオ・デ・ジャネイロ日本国総領事館管内】▼ミノル・マツウラ氏(リオ・デ・ジャネイロ日系協会会長)
【在レシフェ日本国総領事館管内】▼ジョアン・コウジ・スナノ氏(バイーア州財務局徴税監査官、大型事業「サルバドール日本文化祭」の実現、バイーア州)▼ロベルト・フジオ・ミズシマ氏(バイーア日伯文化協会連合会会長、バイーア州)▼篠原アルマンド秀樹(ペルナンブコ連邦大学機械工学部教授、日本語講座を設立、ペルナンブコ州)
【在ベレン領事事務所管内】▼カスタニャル日伯文化協会(パラー州)▼サンタイザベル・サントアントニオ日伯文化協会(パラー州)
マリコさんから嬉しいお知らせが入りました。
今朝早くマリコさんから電話連絡を受けクリチーバ総領事館からの推薦で令和元年の外務大臣賞受賞の連絡をうけました。7月16日解禁の情報でニッケイ新聞にも掲載されているが、直接和田さんに一番に知らせたかったとの弾んだ声で知らせて呉れました。ブラジル滞在中ですが、7月20日に一時帰国してお母さまと共に23日直接外務大臣から二人で賞状を受け取る事にして26日には、再度ブラジルに戻って来るとの事で8月の日本祭りには、間違いなくポルトアレグレに行くとの事でした。
マリコさんオメデトウ! 長年のブラジルを中心としたパラグアイ、ボリビア、アルゼンチンの同船者の居る国々に日本の歌を届けて呉れたマリコさんの地道な活動に対するご褒美ですね。この喜びを50年!!の皆さんと分かち合いましょう。長年マネジャ―として南米旅行を同行されていたお母さまも喜んで居られるでしょう。本当に良かったですね。オメデトウ!!
昨年のポルトアレグレ日本祭りの写真を今年の日本祭りカタログからお借りして貼り付けて置きます。

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≪日本の排他的経済水域≫ 古谷さんが地図を送って呉れました。

村松さん 皆さん
   古谷です
 
幣前信でヒトツ言い洩らしましたので、追記します。
 
一つは日本の排他的経済水域の広さです。日本海側はお隣さんが近くに迫っていますので、宗谷海峡から台湾海峡まで窮屈な思いをしていますが、太平洋側は、南に島々が点在していますので、広々としています。従い、その分海上自衛隊・海上保安庁の負担が大きいと言う事で、予算も人員も減らす訳にはいかないと言う事です。
 
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日本の国土面積は、約38KM2で広さの順位は世界で60位ですが、排他的経済水域は447KM2で世界第六位です。両方を合わせた広さの順位も第九位です。人口からも、GNPから見ても、日本は大国です。

≪御譲位、まことに尊い救国の御業(みわざ)≫ 西村
悟の時事通信を古谷さんが送って呉れました。

皆さん
 古谷です
「西村真悟の時事通信」05月01日号を添付別紙でお送りします。ご一読下さい。
何方かが、随喜の涙を流して喜びそうな内容です。


西村眞悟の時事通信                                   2019-05-01
御譲位、まことに尊い救国の御業(みわざ)
 この度の先帝の御譲位と新帝の践祚による御代替わりは、明らかに、昭和二十二年五月三日に施行された「日本国憲法」(以下、「マッカーサー憲法」という)の想定外の事態である。この御代替わりは、「マッカーサー憲法」がGHQ(連合軍総司令部)の部員によって書かれた同二十一年二月の遙か以前、即ち、太古から我が国の皇室に伝わる、万世一系の皇祚を践むための法(のり)つまり先例と慣習によって行われた。
 それ故、我々が先ず確認すべきことは、この度の「マッカーサー憲法」の想定外の御譲位は、平成二十八年八月八日の天皇陛下の「お言葉」で明らかなように、陛下ご自身が、御自らの譲位の御意思を国民に向かって、直接、表明されたことによって始まったということだ。よって、この「お言葉」には言い知れぬ権威と重みが宿っており、これは、明治天皇が、明治元年三月十四日、「五箇条のご誓文」とともに国民に向かって表明された「国威宣布の宸翰」と同じ画期的な意義を湛えている。
 何故なら、この陛下の「お言葉」は、明治天皇の「国威宣布の宸翰」と同じ、「天皇のしらす国」という我が国の古来からの在り方から生まれ出たものだからである。つまり、天皇と国民は一つの家族であるという伝統から発せられている。 明治天皇と今上陛下は、国民を御自分の家族として、まさしく家族に語るように、次の通り、率直に赤裸々に、自らの心情を直接国民に表明された。明治天皇は、十六歳の若さからくるみずみずしい不安を、今上陛下は、八十歳を越える老齢からくる懸念を、訴えられたのである。
 明治天皇は、「朕幼弱を以てにわかに大統を紹(つ)き、爾来何を以て万国に対立し、列祖に事える奉らむやと、朝夕恐懼に堪えざるなり」と、今上陛下は、「既に八十を越え、幸い健康とは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮するとき、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしてゆくことが、難しくなるのではないかと案じています」と。なお、「宸翰」とは、天皇の国民に対するお手紙即ちお言葉のことである。従って、この度の今上陛下の「お言葉」は、まさに「宸翰」である。 そして、紛れもなく、「マッカーサー憲法」を越える力をもつ「大御心」(おおみごころ)である。それ故、皇后陛下は、平成二十八八月八日の今上陛下の「お言葉」を聖徳太子の十七条の憲法三に曰く「承詔必勤」(詔を承れば必ず謹め)の教えの通り、同年十月二十日の御誕生日の「お言葉」で、「陛下の御表明も『謹んでこれを承りました』」と申されたのだ。
 その上で、皇后陛下は続けて次の通り申された。
「ただ、新聞の一面に『生前退位』という大きな活字を見たときの衝撃は、大きなものでした。それまで私は、歴史の書物の中でも、こうした表現に接したことが一度もなかったので、一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。」
  この皇后陛下に、大きな衝撃と驚きと痛みを感じさせたものの正体こそ、「マッカーサー憲法」に由来する我が国の「戦後体制」そのものであることを、これから述べる。
 平成三十一年四月に入り、御譲位を目前にされた両陛下は、まず橿原の初代天皇である神武天皇の御陵に参拝され、次に天壌無窮の神勅を下された天皇家の祖である天照大神を祀る伊勢神宮に参拝され、そしてお父上の昭和天皇御陵に参拝されたのである。
 両陛下が伊勢神宮に参拝されるに際し、二人の侍従が剣璽即ち草薙の剣と勾玉を捧持して陛下に従っていたことに注目されたい。それは、まさに「三種の神器」のうちの二つであり、神宮に祀られている天照大神が、降臨する天孫瓊瓊杵尊に授けられた剣と勾玉である。
 剣は素戔嗚尊が退治した八岐大蛇の尾からでてきた太刀。そして以後、連綿、万世一系の天皇に伝えられて今日に至るものである。伊勢神宮に参拝される両陛下が携えられた神器は剣と勾玉の二つであるが、もう一つの天照大神が瓊瓊杵尊に授けられた神器である鏡は、既に、伊勢神宮に祀られている。
 よって、この度の両陛下の神宮参拝によって、「三種の神器」はすべて陛下の元に揃ったのだ。この先帝陛下の神武天皇御陵から昭和天皇御陵への御親拝まで、これまさに、御譲位を皇祖皇宗に御報告される一連の神事であり、我が国の太古からの先例と慣習に基づくものである。 
 次に、この皇室の歴史と伝統に基づく御譲位の在り方が、「マッカーサー憲法」に呪縛された現内閣によって如何に変容させられたかを書くが、その前に、「マッカーサー憲法」に全く汚されなかった践祚の姿を「昭和天皇実録」に基づき記しておく。
 大正十五年十二月二十五日午前一時二十五分、葉山御用邸にて、大正天皇崩御、即、皇太子裕仁親王践祚同日午前二時四十分、宮内大臣、内閣総理大臣、連署の公示で崩御発表。同日午前三時十五分、天照大神を祀る皇居賢所に掌典長九条道実、天皇御代拝、同時に、葉山御用邸にて剣璽渡御の儀(三種の神器の引き継ぎ)、元帥大勲位伯爵東郷平八郎、大勲位公爵西園寺公望、内閣総理大臣若槻礼次郎ら参列のもと、先帝の侍従二人が剣璽を捧持して新帝の前に置く。
 同日午前三時三十分、閣議にて元号建定の件を計り枢密院に諮詢     
  同日午前六時四十五分、枢密院、元号案決定
 同日午前九時四十五分、新帝、元号御裁可、詔書に御署名、詔書、官報号外にて公布
「朕、皇祖皇宗ノ威霊ニ頼リ大統ヲ承ケ万機ヲ総フ、茲ニ定制ニ遵ヒ元号ヲ建テ、大正十五年十二月二十五日以後ヲ改メテ昭和元年ト為ス
    御名御璽
大正十五年十二月二十五日
 ここにおいて明らかなことは、先帝の崩御と新帝の践祚そして三種の神器の渡御(継承)と元号の制定は不可分一体として為されたということである。従って、この度の、御譲位においても、宮中(天子が住まれる禁中)においては、御譲位と践祚そして三種の神器の渡御(承継)と元号の御裁可は不可分として為された。
 しかし、「マッカーサー憲法」の忠実な下僕である内閣および我が国政治そしてマスコミは、この禁中の歴史と伝統の姿をバラバラに分解して著しい変容を加え神事としての本質を捨象したのである。
 まず、天皇の「御意思に基づく御譲位」を御意思ではない「内閣の決定した退位」とし、
新帝による元号の御裁可よりも、内閣による元号決定とその発表を優先せしめた。
 「マッカーサー憲法」における天皇とは、日本国と日本国民統合の象徴であり、内閣の助言と承認によるとはいえ、内閣総理大臣と最高裁判所長官を任命し国会を召集し衆議院を解散する等々の国家における至高の位(くらい)にある。
  この至高の位を、自らの意思で皇太子に譲るということは、まさに国政に関する最高かつ最重要の権能を行使することである。これは、「天皇は国政に関する権能を有しない」(第四条)とする「マッカーサー憲法」では、全く想定外であり腰が抜けても為しえないことである、と内閣の法匪が判断した。
 そう、その通り、「マッカーサー憲法」では、想定外でなし得ないことである。しかし、陛下は、まさに、それを為されたのだ。時、平成三十一年四月三十日二十四時である。この天皇陛下の御決意の前に、「マッカーサー憲法」など存在しない。
 そして、この事態に狼狽えた内閣は、皇后陛下の言われた、「承詔必勤」(聖徳太子の十七条憲法)詔を承れば必ず謹め、の反対を行った。
 即ち、天皇の御譲位を、フランスのルイ十六世やロシアのニコライ二世の遭遇した革命による王制打倒による退位と同様に扱ったのだ。
 これは、あたかも、歴史と伝統に根ざす揺るぎなき真実の姿に、凸凹のレンズ(マッカーサー憲法)を当てて歪んで見える虚像を現実の姿であると思い込む愚かさである。
 即ち、世界最古の我が国の万世一系の皇位継承の在り方を、こともあろうに、その母国の政府自身が、実に、母国を裏切るが如く、軽薄なる二十世紀の人民共和国における権力者交代と同じように扱って恥じない不遜なる粉飾、不敬極まる「レッテルの詐欺」を為したのである。
 だが、この反面、万人の前に明らかになったことがある。これが、近い将来、我が国を明るい本来の日本に甦らせることになる。
 天皇陛下が、御自らの御譲位によってこれを天下に示されたのだ。それは、「マッカーサー憲法」は、GHQの日本統治基本法ではありえても、日本の「憲法」ではないということだ。よって、この度の御譲位は、天皇陛下による、「マッカーサー憲法」の無効宣言に等しい。
 これ、まことに尊い御業(みわざ)ではないか。
 即ち、ここにおいて、明らかになったのは、悠久の昔から今に至る天皇と国民の家族の国である日本の「歴史と伝統」と「マッカーサー憲法」との文明の相剋であり、御上御一人の「大御心」が、これに打ち勝ち、「マッカーサー憲法」の桎梏を解体したということだ。
  このようにして始まった「令和の御代」が、太古からの力を承けた明朗にして力強い日本の甦りの御代にならないはずはない。
 そこで、ここで思い起こすべきは、第百八代後水尾天皇の御譲位だ。後水尾天皇(一五九六年〜一六八〇年)は、関ヶ原の合戦の勝利(一六〇〇年)に続く慶長二十年(一六一五年)の大坂夏の陣で豊臣宗家を滅ぼして天下の覇者となった大御所徳川家康と二代将軍秀忠が、直ちに「禁中並公家諸法度」を制定すると同時に京都所司代を設置して禁中即ち天皇を幕府の統制下に置く事態に直面した天皇である。承久の変(一二二一年)に勝利した鎌倉幕府も、畏れ謹んで禁中を統制下に置くことはなかった。しかし禁中並公家諸法度は、幕府を天皇の上位に置く、我が国政史上前代未聞の措置であった。
 それ故、後水尾天皇は、天皇の勅許を幕府が無効とする事態(紫衣事件)や無位無冠の三代将軍家光の乳母である春日局が宮中の仕来りを無視して参内するという事態(金杯事件)に直面し、突如、六歳の内親王(明正天皇)に譲位され、以後、四代にわたる自らの実子の天皇のともで、五十年間にわたり上皇として徳川幕府を越える朝廷の権威を天下に明示し続けられた。
 そして、この天皇、上皇の御代に、崎門学の祖である山崎闇斎や水戸学の祖である徳川光圀そして「中朝事実」を書いた山鹿素行などの、「尊皇」という明治維新の思想的バックボーン、即ち、國體思想を産み出す救国の思想家が相次いで生まれたのだ。
 後水尾天皇の御譲位が、幕府の上に天皇の権威があることを天下に示し続け、二百年後の「禁中並公家諸法度体制」からの脱却と「王政復古」を促したといえる。
 同様に、この度の天皇陛下の御譲位が、「マッカーサー憲法」の廃棄、即ち「マッカーサー憲法体制」からの脱却と「明るい本来の日本の復古」を促している。 
  さて、ここまで記してきた上で、本稿が何を目指しているか明示する。
  それは、宮中(禁中)における「マッカーサー憲法」超越を目の当たりにして、世俗の我らは、如何にして、この「マッカーサー憲法」を廃棄するのかである。「改正」するのではない。「廃棄」するのだ。
  「無効」なものは「改正」できないではないか、捨て去る以外にない。そして、これが即ち、国家と国民を滅亡から救う。繰り返すが、この度の御譲位は、御上御一人で、「マッカーサー憲法」から脱却されるという歴史的なまことに尊い御業である。これを承けて、我ら日本国民(臣民)が、御上に続かずしてどうする。
 ここで一つ、「マッカーサー憲法」に縛られないで、自衛隊が多くの国民の命を救った事例を挙げる。平成七年一月十七日の阪神淡路大震災における生存者救出数は、警察が三千四百九十五人、消防が一千三百八十七人であるのに対して、自衛隊は百六十五人である。
 平成二十三年三月十一日の東日本大震災と巨大津波における生存者救出数は、警察が三千七百四十九人、消防が四千六百十四人であるのに対して、自衛隊は一万九千二百八十六人である。この阪神淡路大震災と東日本大震災における生存者救出数における顕著な相違は、阪神淡路大震災においては自衛隊が全生存者救出数の三パーセントしか救出できていないが、東日本大震災においては七十パーセントを救出するという圧倒的な役割を果たしていることだ。
 仮に、自衛隊が、阪神淡路大震災においても、東日本大震災におけるのと同様の実力を発揮しておれば、警察と消防による救出者数の二倍以上を救出できた計算になる。従って、阪神淡路大地震による犠牲者六千四百三十四人の内、実に多くの人々が生きて救出されていたことになるのだ。
 では、この阪神淡路大震災と東日本大震災の、国民の生死を別けた顕著な差は、如何にして生まれたのであろうか。そのわけは、前者においては自衛隊の出動が遅れ、後者においては自衛隊が直ちに出動したからである。では、さらに、何故、自衛隊出動が、前者では遅れ後者では遅れなかったのか。それは、前者が「マッカーサー憲法」を遵守し、後者がそれを無視したからである。前者も後者も、ともに発災時の総理大臣は、申し合わせたように無能な左翼にして護憲派であり「マッカーサー憲法」信奉者であった。
 つまり、簡単に言えば、東京では馬鹿、大阪では阿呆、であった。そして前者では、自衛隊の出動を、この絵に描いたような無能な総理大臣の判断に委ねたのに対し、後者においては二度と同じ轍は踏まず、馬鹿な総理のラインを無視して、陸上自衛隊幕僚長火箱芳文陸将が、独断専行して自衛隊を出動させたのである。
 彼は、地震の揺れに東京で遭遇したとき、直ちに「これは戦だ」と直感し、陸上自衛隊の総力を挙げてこれに勝つと決意した。
  そして、防衛省庁舎の階段を駆け下りながら、頭に入っている全国の部隊を想起して救援部隊の編成、即ち「戦闘序列」を作成して指示した。
  「いずれ、大臣、統幕長から正式な命令が来るが、それを待つことなく直ちに準備せよ」と。この陸幕長の決断が、多くの国民の生死を分けたことを知っておいていただきたい。
  通常、この時の総理大臣や左翼は、「マッカーサー憲法」に基づいて、これをシビリアン・コントロール違反と騒ぎ、自衛隊の行動を抑制するのが平和だ正義だと思い込んでいる。
 しかし、この時にこの「マッカーサー憲法」に基づいておれば、生きて救出されるべき多くの国民が死んだのだ。これ、平和でも正義でもなく、その反対だ。そもそもシビリアン・コントロールとは他国と戦争を開始するか否かの決断は、大統領か総理大臣が行い、軍の指揮官が勝手に戦争を始めてはならないということに過ぎない。
 目の前で同胞が津波に流され瓦礫に埋まっているとき、部隊長の独断で直ちに自衛隊が出動するのは当たり前だ。事実、被災地のまっただ中に駐屯する多賀城の陸上自衛隊第二十二普通科連隊は、自らの家族も被災者であるのに、連隊長の命令で、全員直ちに救出活動に没頭し、たった九百名の連隊で、総数十万七千の自衛隊救出部隊が救出した約二万人の四分の一に当たる四千七百七十五人を救出した。
 さらに、特筆すべきは、この大災害の時、明らかに見えていたのは、我が国の統治者は天皇であるということだ。総理大臣菅直人は、東京の東電本社や官邸で喚いていたが、救援活動に関与せず、被災地を歩けなかった。彼は一度被災地に行ったが、被災者から何をしに来たのかと怒鳴られた。去ろうとすると、何故、何もせずに帰るのかと詰問された。
  そして、立ち往生した。即ち、彼は統治者ではなかったのだ。
 他方、被災地各所に巡幸されて被災者を労り慰められて被災者の心に明るさと同胞として助け合う連帯心を回復させるという復興に向けた決定的な転機をもたらされた天皇陛下は、明らかに我が国の統治者であった。大日本帝国憲法第一条「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」。まさに、この通りであった。
 それ故、天皇陛下は、国民に対する「お言葉」で、被災者のその苦難に耐える雄々しいすがたを讃えられて励まされ、余震の続く中で懸命の救出活動をしている自衛隊員の労苦に感謝されるとともに、各国の元首から天皇に送られているお見舞いの電報を披露された。
各国の元首は、我が国の天皇に宛て電報を送ったのだ。即ち、各国からみて天皇は、明らかに日本の元首で統治者であられる。
 さらに、救援のために編成された自衛隊の空前の大部隊である十万七千の統合任務部隊の司令官である東北方面総監の君塚栄治陸将は、被災地巡幸のために、自衛隊機で自衛隊の松島空港に降り立たれた天皇皇后両陛下に対し、鉄兜に野戦服の姿で正対し、敬礼してお迎えした。
 天皇陛下は、自衛隊が命を懸けて忠誠を誓う我が国の統治者であるからだ。
 この情景は、歴史的であった。
 この時、我が自衛隊は、自らの危険を顧みず、果敢に国民を救出する精強な軍隊即ち国軍であったのだ。アメリカ軍の将官は、福島第一原発の上部が吹き飛んだ灼熱の原子炉建屋の上空に大型ヘリCH47をホバリングさせて四十トンの水を落とす自衛隊を見て、人の命を何とも思わないような作戦はするなと言いつつも、自衛隊員が、いとも簡単に自分の命をかけていることに驚嘆した。
 中共の将官は、日本人は戦前戦後全く変わっていない、簡単に命をかけてくる、仮に日本に向けて核ミサイルの発射準備をすれば、日本人は確実に飛行機に爆弾を満載してミサイルに突っ込んでくるだろう、と言った。 
  以上の通り、天皇陛下の御譲位の情況と東日本大震災の救援活動を述べた訳は、この二つの御業と事態のなかで、我が国には、紙に書かれた「マッカーサー憲法」(占領基本法)の存在とは別に、我が国の歴史と伝統のなかに紙に書かれない根本規範(先例と慣例)があることが既に鮮明になっているからである。この紙に書かれない根本規範が、「マッカーサー憲法」に優越して現実に機能し、戦前と戦後の連続性、太古から天皇を戴いて現在に至る連続性を維持し、日本を日本たらしめているのである。
 従って、現在、我らに、国家の永続を確保し国民の命を守るために、突きつけられ決断を促している課題は、如何にして「マッカーサー憲法」を廃棄して「マッカーサー憲法体制」から脱却するかである。法論理的に、無効なものは改正できないし、実際的にも、「マッカーサー憲法」を書いた者、チャールズ・ケーディス自身が、どういう目的で書いたのかと、産経新聞の古森義久記者から尋ねられて、「日本を永遠に武装解除されたままにしておくために書いた」と答えているのだから、「マッカーサー憲法」の改正規定を機能させるのは無理だ。
 では、どうするのか。
  難しく考える必要はない。私は、かつて同じ課題に直面して関東御成敗式目を制定した鎌倉幕府執権北条泰時の決断と、西洋の「ゴルディアスの結び目を斬る」故事にならい、我ら一人一人、特に内閣総理大臣に対し、事に直面して「マッカーサー憲法無効宣言」をする決断を要請する。
 我が国が、奈良、平安朝時代に支那から輸入された「律令」に縛られていたとき、北条泰時は、次の決断により、律令を捨てて、鎌倉殿以来の先例と慣例を成文化して貞永元年(一二三二年)関東御成敗式目を制定する(泰時消息文、弟の六波羅探題重時への手紙)。「田舎には、その道(律令)をうかがい知りたるもの、千人万人のなかに一人だにもありがたく候、(よって、知らない律令を適用されることは)鹿穴掘りたる山に入りて、知らずにおちいらんがごとく候はんか。それ故、我らは、大将殿(源頼朝)の御時、この法令(律令)を求めて御成敗(裁判)など候はず、代々将軍の御時も、又、その儀なく候へば、いまもかの御例をまねばれ候なり。」
 つまり、我らも泰時が言うように、「マッカーサー憲法」などに従っていたら、山の中で鹿を狩る落とし穴に落ちるようなことになるから、こんな毛唐の書いたものは忘れて、我らの歴史と伝統の中にある先例と慣例に従うと思い決したらいいのだ。
 現在のUK(イギリス)も、歴史と伝統に基づく先例と慣例を不文の憲法として運用されているではないか。
 次に、ゴルディアスの結び目を斬る故事。
  これはコルディアスという王が古代の宮殿の柱に荷車を難く結びつけて、この結び目を解く者がアジアの王になるという予言をした。すると何世紀にもわたって人が来て結び目を解こうとしたが誰も解けなかった。そこにアレキサンダーが来て、結び目を一挙に剣で切断して柱と荷車を切り離した。そして、アジアの王になったという伝説。
  これは、難問を誰も思いつかない方法で一挙に解決するという諺だ。
  戦後長らく、憲法改正だとか護憲だとか、延々と七十余年間続いているが、「改正も護憲も蜂の頭もない、無効だ!」と宣言すれば済むことではないか。我が国を取り巻く内外の情勢はまことに厳しく、中国共産党の軍事的暴力的台頭によって尖閣と沖縄と台湾に危機が迫っている。これ、我が国の興廃にかかわる危機である。
 今こそ、我々一人一人が北条泰時になりゴルディアスの結び目を切断して、総理大臣に、貴君も斬れ、と促すときである。これが、救国の一手だ。事に臨んで、この一手があることを、心に刻んでおくべきだろう。これによって、明治天皇の御製にある通り、我が国は必ず甦る。
  敷島のやまと心のををしさはことある時そあらわれにける
 花と新緑の季節のなかの長い連休を過ごすことになったので、「令和」という元号の時代の始まりに、世相は何か浮かれて気味であるが、これは、想えば、七十四年前に、五体為に裂く思いのなかで、耐え難きを耐え忍び難きを忍んで戦(いくさ)を止められ、敗戦という結果を受け入れられた、明治天皇を崇敬され、人格形成において最大の影響を受けた方は、明治天皇の跡を追って殉死した乃木希典学習院院長であったと語られた昭和天皇が、一身の生死を超越した思いで敢然と開始された「万世のために太平を開かむ」という天皇家の御志が、昭和、平成に続く三代目の御代で結実し、戦後から脱却した明るく力強い日本が再興される令和という御代に入ったということである。
 これこそ、歴代天皇の御稜威(みいつ)である。まことに、身の引き締まる思いではないか。
 明治大帝、そして、戦前、戦中そして敗戦の日本を背負われた昭和天皇の御威徳を偲び、御譲位によって希望に満ちる令和の御代を開かれた上皇陛下と皇太后陛下のご健勝と、新帝陛下と皇室の弥栄を、切に祈り申し上げます。
以上

ポルトアレグレの地元紙が伝える天皇譲位関係ニュースです。

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「平成」から「令和」へ=平和な時代惜しみ、新しい御世に期待=ご在位30年の想い、ひしひしと ニッケイ新聞WEB版より

天皇陛下のお言葉
2009(平成21)年7月10日、カナダ・ブリティッシュコロンビア州訪問時(Shawnc, From Wikimedia Commons)
2009(平成21)年7月10日、カナダ・ブリティッシュコロンビア州訪問時(Shawnc, From Wikimedia Commons)

 在位三十年に当たり、政府並びに国の内外から寄せられた祝意に対し、深く感謝いたします。

 即位から30年、こと多く過ぎた日々を振り返り、今日こうして国の内外の祝意に包まれ、このような日を迎えることを誠に感慨深く思います。 平成の30年間、日本は国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちましたが、それはまた、決して平坦な時代ではなく、多くの予想せぬ困難に直面した時代でもありました。世界は気候変動の周期に入り、我が国も多くの自然災害に襲われ、また高齢化、少子化による人口構造の変化から、過去に経験のない多くの社会現象にも直面しました。島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し、誠意を持って他国との関係を構築していくことが求められているのではないかと思います。

 天皇として即位して以来今日まで、日々国の安寧と人々の幸せを祈り、象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました。しかし憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています。
 天皇としてのこれまでの務めを、人々の助けを得て行うことができたことは幸せなことでした。これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。災害の相次いだこの30年を通し、不幸にも被災の地で多くの悲しみに遭遇しながらも、健気に耐え抜いてきた人々、そして被災地の哀しみを我が事とし、様々な形で寄り添い続けてきた全国の人々の姿は、私の在位中の忘れ難い記憶の一つです。
 今日この機会に、日本が苦しみと悲しみのさ中にあった時、少なからぬ関心を寄せられた諸外国の方々にも、お礼の気持ちを述べたく思います。数知れぬ多くの国や国際機関、また地域が、心のこもった援助を与えてくださいました。心より深く感謝いたします。
 平成が始まって間もなく、皇后は感慨のこもった一首の歌を記しています。
 ともどもに平らけき代を築かむと諸人のことば国うちに充つ
 平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇の中に歩みを始めました。そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。
 しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。
 在位三十年に当たり、今日このような式典を催してくださった皆様に厚く感謝の意を表し、ここに改めて、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。(平成31年2月24日、天皇陛下御在位三十年記念式典にて)

≪平成の象徴像の原点 皇太子時代、地方で若者と懇談≫日本経済新聞電子版より  
2019/4/28 20:20
日本経済新聞 電子版


人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添う――。天皇、皇后両陛下の国民に寄り添うスタイルは結婚3年後から始動していた。皇太子夫妻時代、地方訪問のたびに地元の青年男女との懇談会に臨まれた。懇談は2時間に及ぶこともあり、テーマも憲法や農家の結婚問題など様々。いまでは回顧されることがなく、知られざる事実だが、平成の象徴像の原点がここにあった。
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皇太子時代の天皇、皇后両陛下が地元の青年男女と座談会をしたことを伝える1962年の宮崎日日新聞
両陛下が初めて地方での懇談会に参加したのは、1959年の結婚から3年が過ぎた62年5月の宮崎県訪問。同月3日、農業、林業などに従事する19歳から30歳までの「働く青年」11人(男性8人、女性3人)と語り合った。
一問一答を報じた宮崎日日新聞によると、天皇陛下は「豚肉の値下がりで、経営もなかなか苦労が多いでしょう」、皇后さまは「消費者の声を取り入れることが大事だと思いますけど、どうやって聞きますか」などと質問されている。懇談は午後7時45分から9時45分までの2時間。1時間の予定だったが、倍の時間に延びたという。同紙はこの懇談が「ご夫妻の希望で行われた」と記している。
続いて同月7日、鹿児島県を訪問した際の懇談会(青年男女10人参加、2時間半)では、陛下の「いまどういう討議がさかんですか」という質問に、地元の学生が「核実験や憲法改正問題などです」と答えると「憲法問題におくわしい殿下は身をのり出すようにして話題は憲法問題に集中した」(南日本新聞)。
翌63年9月17日には山口県で「農村青年のつどい」と題した男女23人を集めた懇談会が開かれ、陛下が「農家の労働は激しいようだが、若い人がこれからの生活改善をしていくにはどうすればよいのか」、皇后さまは「農村に女性をおヨメにやりたくないとか、行きたくないという話をききますが」「農家のヨメの労働時間はどうなっていますか」と尋ね、活発な議論になったという(防長新聞)。
懇談は各地の農漁村や勤労青年の男女10人程度と行われることが多く、1時間の予定が30分以上オーバーするのが通例だった。とくに意識されたのが辺境で生活する人々との対話で、「辺地の教師、保健婦、保母との懇談」(68年8月、福島県)や「へき地に働く人々のつどい」(71年8月、徳島県)に臨まれた。
地方での懇談会は70年代後半まで続けられていたが、全国メディアで報じられることがほとんどなく、各地の地方紙が詳しく掲載していた。
69年8月の群馬県訪問では、上毛新聞が「あふれる人間味」として、心身障害児の施設で子どもたちの手や頭をなでながら声をかけたり、ほこりの舞う道でも車の窓を開け、スピードを緩めて沿道の人々に手を振る両陛下の姿を描写している。平成のスタイルはこの時期には確立していた。
地方紙の記事を「再発見」し、近著「平成の終焉(しゅうえん)」で引用している原武史・放送大学教授は「懇談会に男女が参加していることが重要。当時は女性の声が反映しにくい時代だったが、美智子妃が会話に加わって、それをすくい上げている。全国を回り、人々と直接やりとりをすることで、夫妻は地域の問題や多様性などを具体的に認識していったのではないか」と話している。
(編集委員 井上亮)

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